デザイナーなんて要らない!?デザインの本当のオシゴトとは。
2020年10月6日DESIGN STORY
デザインもできるまとめ役?
自分はどちらかと言うとデザインも出来るプランナー、
コーディネーターの役回りが適任だと思っている。
正直に言うと、デザインはあまり好きでは無い。
なぜかと言うと自分の能力の限界を知っているからだ。ボク程度のデザイナーは世の中にゴマンといる。今回は再来年60歳を迎える節目として自分の足跡をたどってみる。
デザインとは見えないものを見える様にする作業。
なぜそんな古い話を持ち出したかと言うと、殆どの人がデザインは絵を作る仕事だと思っているからだ。確かに仕事の一部ではあるがそれが全てでは無い。
デザインとは目的を達成する為の台本の様なものだ。
そのプロジェクトに携わる人、利用する人の意見や要望をまとめて環境を整える仕事である。
その為には様々な意見やアイディアに優先順位をつけて整理整頓する能力が必要になる。
見えないモノを見える様にするとはこの様な意味だと自分なりに解釈している。
コレがデザインの仕事の全てだと言っても決して過言では無いだろう。
最初にボクの職歴と仕事観について話してみたい。
ボ ク の 職 歴
1982年~1984年 都内のデザイン会社に勤務
まず仕事を覚えて認められる事が大事だと思った駆け出しの時代。
専門学校卒業後、都内のデザイン事務所に就職してグラフィックデザイナーの基礎を学ぶ。
当時の日本は右肩上がりの急成長で流通業が絶好調の時代であった。
ボクが就職した会社は大手流通量販店の販促物を請け負っており、当時その量販店は新店が次々にオープンしていて、毎週、バカでかいサイズのチラシを打ちまくっていた。
ボクと同期に入社した新人は仕事が覚えられずすぐに脱落して退社。安月給で休日無しの、今では考えられないくらいのひどい職場環境だったが、ボクはこう見えても真面目なので、
まず仕事を覚えて認められるまではどこに移ってもムダだと思い懸命に仕事を覚えた。
会社はほぼ毎日残業で、先輩と共に泊まり込みで仕事を覚えた事で、その前向きな姿勢が認められたのか、次第に先輩方が目をかけてくれて色入りな技法を教えてくれる様になった。
そして入社の翌年、会社である事件が起きる。
☆1983年~1988年 仲間と一緒に新会社に移籍
そして数え切れない思い出を胸に抱いて東京生活に別れを告げた。
その会社には2人のディレクターがいた。1人はボクを採用してくれた人で社内で最も仕事ができる優秀な人だった。もう1人は営業兼任で、デザイナー全員が徹夜で多忙な時でも定時になるととさっさと帰宅する人だった。当然若いデザイナーからの評判はすこぶる悪くダメなヤツのレッテルを貼られていた。ある日の夜、クライアントのデザインチェックで全面修正が入り
若いデザイナーが徹夜で対応したのだが、そのディレクターは例によって定時で帰宅した為、デザイナーの怒りが爆発。彼が翌日社長に全ての経緯を報告した事でディレクターが社長から叱責を受けて社内が内乱状態になってしまった。ボクの師匠のKさんはこれを機に辞めると言い出してそのまま退職してしまった。この数カ月後、Kさんと同業の友人から新会社設立の話が立ち上がり、事が一気に進んだ。Kさんが主要メンバーを引き連れて新会社に参加。ボクも自動的に移籍となった。その後Kさんの元で5年間様々な経験をさせて頂いたが、これ以上留まるとココが安住の地になってしまうのではないかと思い、そろそろ次のステップに進むべきではないかという気持ちになっていた。大好きな東京、そして長年支えてもらったメンバーと別れるのは何よりも辛かったが、自分の人生と向き合う為にも、1988年の冬、東京生活にピリオドを打つ決断を下した。12月、東京を離れる最後の日、新幹線の車窓から見た街の景色に涙が止まらなかった事が昨日の事の様に思い出される。
☆1988年~1990年 数々の思い出を胸に。
社長が作った丸パクリの企画書に唖然として速やかに移籍先を探した。
名古屋に戻り最初に勤めた会社はデザイン会社だったが社長は経営コンサルタント。典型的な肩書き大好き人間でその上自信過剰ときては、周りはゴマスリばかりになって人も育たない。
ボクは東京で仕事をした経歴から一目置かれて認めてくれたが、他の従業員は毎日ボロクソに言われていた。社長は、自分はこの世界で顔が広いと豪語していたがデザインの事は何も知らないシロウトだった。ある日社長の不在中、机の上に置いてあった制作中の企画書を見たら社長室の本棚にあった市販本の丸写しだった。なぜそれが分かったかと言うと、以前見かけて読んだ記憶があったからだ。驚きと情けなさで唖然とした。コンサルタントと言いながら他人が書いた本の丸写しで企画書を作るなどプロとして失格。こんな会社に居ても何の価値もないと判断して退社せざるを得なくなった。お世話になった事は感謝しているがコレが名古屋のプロ意識かと思ったものだ。この人はまだ現役の様だがよく今まで会社を経営できたなと思う。
☆1991年~1993年 こんな事ならと自身の会社を設立。
理想の会社など存在しない事を分かっていながら失望した2年間。
知人のつてで移った2番目の会社は東京に本社を置くデザイン会社の名古屋オフィスだった。ディレクター扱いだったが、社長の要請でマネージメント業務も兼任だった。営業をしてクライアントを作り、若いスタッフには仕事を与える。加えて重要な仕事のディレクションやデザインは自分で行なわなければならない。ここでもボクは1人の優秀な女性デザイナーに支えられて何とか役目を担う事ができたのだが、流石に一人二役は疲れる。こうなるとこのままずっと続けていく必要があるのか?という気分になってしまう。実際東京オフィスはボクに任せっきりの放ったらかし状態だった。ま、それはそれで自由にやれたメリットもあったが、あまりにも自分の守備範囲が広過ぎてボクはもう持ちこたえられなくなっていた。別の見方をすれば、もはや自分が従業員という枠に収まらない人間になっていたのかも知れない。当時はもう移籍はしないと決めていたので、ボクはこれを機に独立を決断することになる。
☆1993年~1996年 様々な仕事を糧に飛躍が続いた。
父を取締役に据えて、最も輝いていた時期が始まった。
父は仕事で直接の接点は無かったものの、ボクの独立を喜んでくれた。
何よりもボクが東京で8年間生活する事ができたのは父の理解によるところが大きい。
父を一言で言えば、真面目一筋の人生。若くして亡くなった父親に代わり弟2人を大学に行かせた苦労人。50歳を過ぎてパソコンを覚え洋楽とキーボード演奏が大好き。老いても好奇心の塊の人だった。長年生活を共にした犬の死に接してそっと涙を拭う心優しい父親だった。
実は当時、仮に仕事を依頼されても辞退するつもりでいた。仕事を持って行き辞めたと思われるのは自分のプライドが許さなかったからだ。しかしその後担当次長から食事に誘われ「今までキミのおかげで助かった。全面的にバックアップするから今後も責任を持って続けて欲しい」と言われた時は感激した。コレで弾みがつき次々と仕事を引き受ける事が出来た。それでも決して手綱を緩めず、将来を考えてイベント会場の装飾や設営等、紙媒体以外の仕事も積極的に取りに行った。その結果、大日本印刷から事業企画やアイディアプランの立案を依頼される様になり、JETRO(日本貿易振興機構)からは展示会の装飾プロデュースやイベントの運営を依頼される様になった。当時は向かう所敵なし状態で何をやっても上手くいったのだ。
☆1997年~2000年 停滞と苦悩の日々。
不況になると真っ先に削られるのが広告宣伝費。仕事選ぶ事などできなかった。
バブル崩壊はデザイン業界も大きな影響を受けた。あちこちで会社が閉鎖され、転職を余儀なくされた人も多い。ボクは元々脱紙媒体を目指していたので、マルチメディア時代の到来は大きなチャンスだと考えた。今や死語となってしまったマルチメディア。当時は自分の企画力を最大に活かせるメディアだと考え、CD-ROMを始めとしたデジタルコンテンツ事業に活路を見出そうと必死だった。当時はCD-ROM付きの月刊誌も多数発売されて新しい時代を予感させた。しかしながらCD-ROMの制作は極めて手間と時間がかかる作業で、極めれば極めるほど程知識が必要になる世界だと言う事も分かった。従って技術習得の為には、連日深夜まで作業を行わねばならず休日返上で制作作業に没頭していた。
またこの時期から趣味と実益を兼ねた鉄道CGを使ったインタラクティブCD-ROM の制作も開始。1998年と1999年に2つの作品をリリースしてネット販売を行なった。
☆2000年~2007年 突破口を開けないまま父が他界。
昔から文章力には自信があったので40歳になったら企画力で勝負したい思いがあった。
何よりも自身の集中力、持続力は既にピークを過ぎていたし、名古屋でデザインを請け負うのは大して利益が出ないという答えが出ていたからだ。利益が少ないという事は人に喜ばれていない事になる。今は亡き父の言葉だった。収入に不満があればそれは人に喜ばれていないからだと。喜んでもらえない事をいつまでも続けるほどもう若くは無い。日々の仕事をこなしながら毎日色々な事を考えた。企画の仕事は金額に納得できないものばかりであったが、続けていれば確実に実力は付いてくる、企画ができるのならばとデザインの仕事は後から付いてきた。趣味と実益を兼ねて始めた鉄道CGの製作はCD-ROMからUSBメモリーのデータ販売に形を変えて継続していた。出口が見えないまま会社の存続は維持できていたが、全て不満だった。2007年に父が他界。突然の別れだった。自分の親が亡くなる事がこれほどまで生活に影響を与えるとは考えていなかった。父の仕事の整理と自分の会社の再生を同時に行う事は容易で無く、その後の1年間は現状維持が精一杯で何をする気も起きなかった。
☆2008年~2016年 再び輝く為に。
外に出てもう一度人に仕えるという選択肢を選んだ変革の8年間。
会社を作って以来外へ出て働くことのなかった自分が選んだ選択肢は、2012年から会社で請け負ったCVS向け販促物の検品業務という初めて体験する世界だった。社員を含めてスタッフの殆どが自分よりも若い世代と一緒に働く環境は新鮮ではあるが不安もあった。しかしながら全ては自分の為と割り切り業務の遂行だけを考えて日々勤務した。そんな中で気づいた事はパートさん女性達の生真面目さとチームワークの素晴らしさである。時にボクよりも勘が良く多くの間違いを発見する力、そして仲間の仕事ぶりまで気を配る観察力など、女性の能力の高さには改めて驚いたものである。もし彼女たちの支えが無かったら、ボクがあの様な重責を担う事はできなかったのかも知れないと思う。勤務してから4年が経過し、このままずっと続けるべきかと悩んだがその後自身を取り巻く環境に変化が生じ、この仕事から去る決断をした。
今でも思い出すと、彼女たちの姿が浮かんでくる。有意義な仕事と素晴らしい仲間だった。
彼女たちには今も感謝している。
☆2019年~ まだまだ人生を楽しむ為に。
誰のために仕事をするか、ボクにとって最も重要な事だった。
自分を引っ張り上げてくれた人に感謝して、その人の為に仕事をする。
そして素晴らしい仲間との出会い。この想いでずっと仕事をしてきた。
会社を設立以来今まで様々な仕事をさせて頂いてきたがボクの自慢できるコトは
節目節目で素晴らしいお客さんと出会い、
優秀な仲間に恵まれてきたと言うことに尽きる。
今までの感謝を込めてこの場を借りて御礼を申し上げたい。
恩人と仕事仲間
株式会社エフエム愛知 編成局次長(担当当時)Sさん。
「仕事は突然始まって突然終わる」が口癖で、会社設立時のボクを支えてくれた人。
ボクの会社の設立時、1993年はZIP FMの開局年で視聴率競争の激化が予想されていた。
Sさんとは営業活動がきっかけで巡り合い、後に仕事を依頼されることになる。
当時の制作物はタイムテーブルをはじめ、雑誌広告、新聞広告など、パブリシティ全てのデザインと制作を担当させて頂いた。そのスケジュールは極めてタイトでほぼ毎日の様にクライアントに出かけてはデザインのチェック等を受けていた。この仕事は後に担当者が変わるまで3年間続いた。残念ながら近年は音信不通である。今もお元気な事を祈るばかりである。
西川コミュニケーションズ業務生産統括部常務 Nさん。
そして当時の仕事仲間の優秀な女性パートさん達
2012年から4年間CVS向け販促物発送業務の検品業務を担当させて頂いた。
ボクの様な者にもいつも声をかけて下さりとても気遣ってくれた人である。
この仕事は自分を磨き直す意味を込めて請け負ったものでかなり気を入れて挑んだ。
なぜならボクが万一ミスれば、販促物が届けるべき所に届かない事態に陥入るからだ。
この様な重責を4年間も務める事が出来たのは、Nさんを始めとした社員の方々と共に、
当時の仕事仲間である優秀な女性パートさんに支えられたおかげと言っても過言では無い。
因みに彼女達は今も在職中と聞く。いつまでも元気に活躍される事を祈るばかりである。
好きな事や興味がある事をさりげなく仕事に取り込む事だ。
ボクが今までデザインと言う仕事を続けてこられたのは、
自分の好きなコトをさりげなく仕事に取り込んできたからだと思っている。
ここではそんな例を紹介してみたい。
現在この様な番組表があるかどうか不明だが、当時は如何に注目してもらうかを目論みて
毎月ジオラマやコラージュを毎月手作りで制作して表紙のデザインに使用した。
ホビー大好き人間だったので抜擢されたのがこの仕事。
クライアントのバイヤー会議に出席するようになり、マーケティングをかじり始めた頃。
商品企画にも口を挟めるようになり仕事がドンドン面白くなっていった。
旅行代理店のイベントプロデュース。
クライアントはJR東海ツアーズ。オーダーは人目をひくイベント企画の立案だった。開催まで時間が無く、短時間で企画とイメージパースを作りあげた。
リゾート地への観光をイメージした鉄道ジオラマをメインに、その周りをツアー紹介のパネルが囲むという展示レイアウトで、鉄道ジオラマはデザインを自身で行い装飾屋さんに制作を依頼した。クライアントの意向でもあった女性客にも目を止めてもらう為にジオラマの中心部にはペーパークラフトで街を制作、所々に照明を埋め込み。決してマニアックでは無い、可愛いらしいイメージで製作してもらった。このイベントは連日大盛況で、自分の企画力に自信を深める事ができた大変思い出深いものになった。
紙媒体のデザインから脱却する為に デジタルコンテンツ制作に夢中になったボクの熱中時代。
自分も紙のデザインに嫌気が指していたので新しい事業の核にしたいと考えた。
しかしCD-ROMの製作は余程の大手企業でない限り、企画からデザイン、オーサリングと全てを自分でしなければいけない。コレをどうクリアするかが1番の問題だった。
アナログ素材のデジタル加工も面倒な作業だった。
静止画やイラストのデジタル化は容易だが、ビデオの加工は大変な労力を要するもので、
SONYのダブルビデオデッキと編集ソフトを購入して最終的なコンパイルまで自分で行った。
スクリプトの作成に悪戦苦闘した
DIRECTORのオーサリング作業。
色々調べた結果、最も有名なDirectorと言うソフトを購入して毎日勉強した。しかしながら
Directorはスクリプトと呼ばれる専用のプログラム言語を使わないと高度なコンテンツを作ることはできない。スクリプトの習得には相当な時間を要した。この結果、
自分の仕事量は増える一方になっていった。CD-ROMはクリエイターが自分の思うままにコンテンツを制作できるので、各社がこぞって参入したが、作業時間が長い上に収益が上がりにくく、その後webが主流になると衰退の一途を辿っていった。自身の会社も数本の製作依頼を受けたが後に見切りをつけざるを得なくなってしまった。
☆CD ROM制作で習得した技術を使って製作した鉄道CGのCD-ROM販売
こちらは仕事では無いので時間を気にせず自分の好きな様に作る事ができる。好きこそ物の上手なれである。スクリプトの作成もメキメキと腕を上げ一気にモノにしてしまった。自信がついた事で商品化への道も開き、1998年と1999年に2本のオリジナル作品CD-ROMを発売した。今見るとテクニックは決して高度とは言えないものだが、自身で製作したコンテンツがCD-ROMになり、ネットや店舗で販売出来るという事自体当時は画期的な事だったのだ。
この事業は後にプログラミングサービスという形に変えて、昨年の春まで継続していた。
CD-ROM制作は事業としては失敗という結論になったが、自分で企画と制作を行って商品を作るという目的は達成できた。この貴重な体験は後の自分に大きな自信を与えてくれた。
サイドビューで描いた膨大な鉄道車両作品は
今後webで公開することを予定している。
ボクの信条、恩人・恩師から授かった言葉
2020年10月6日DESIGN STORY