酒とタバコと三角定規。Eight Day’s A Week ~ 夜明けの狂想曲 ~
2020年10月7日DESIGN STORY
デザイン専門学校を卒業した1982年の4月、都内のデザイン会社に就職が決まった。21歳になっていた。封書で届いた採用通知を見て、直ぐに実家へ電話をかけた記憶がある。何よりも両親を安心させてあげたかったからだ。採用が決まった会社は製本関係企業が点在していた新宿区の小川町に所在、雑居ビルの2階にあった。1階はコーヒーの香りが漂うオシャレな喫茶店。私を面接して、採用してくれた人は恩師のKさんだった。Kさんの当時の肩書はディレクターだった。面接の後で論文を書かされた。集客イベントについて考えを述べよ、という設問だったと記憶している。当時はこのように記述したと思う。イベントは一時的な集客効果しか期待できない。日常からその商品やブランドに対して、カスタマーロイヤリティを高める必要があるのではないかと。こんな感じだったと思う。私の回答にKさんはこう返してきた。中川君、デザインの仕事はね、集客も大事な役目なんだよ。それも一つの役目。ニコニコして話すKさんの姿を横目に見ながら、もしかしたら採用してくれるかもと感じた瞬間だった。後に先輩デザイナーから聞いた話では、私の採用が決まった直後、Kさんは社内でこう言ったそうだ。「お前らよく聞けよ~。アタマの良い新人が入ってくるぞ」恐らく茶化して言ったのだろう。
入社後、Kさんから最初に教えて頂いた事は三角定規の使い方。当時はまだ手作業でデザインを作っていたアナログ全盛の時代だった。どの会社にもコピー機とファクシミリぐらいしか無かった。現在のMac(Apple Macintoshコンピュータ)を使ってデザインする様になったのは1990年以降。パソコンでアニメーション制作をするようになったのはさらに10年後の2000年頃である。私はその様な環境で育った事もあり、デジタル、アナログ、どちらのスタイルでもデザインを作る事ができる。東京の独身時代はテレビゲームに熱中していたので、パソコンを使ってデザインを作る時代が早く来て欲しいと思っていた。社内で一早くデジタル機器を使いこなしていたのはカメラマンのTさん。Tさんは1985年頃から、個人で購入したNECのPC9801を社内に持ち込み仕事をしていた。当時は家庭用パソコンの普及を目指して、ソニーやキヤノンなど、国内の家電メーカーが提唱したMSX規格の8ビットコンピュータも発売されていたが、グラフィックスの美しさと繊細さは、16ビットコンピュータであるPC9801の足元にも及ばなかった。私もこの頃からTさんのPC9801を拝借してイラストや画像制作を行う様になった。東京時代からビジネスパソコンを使いこなしていたおかげで、独立後にMacを使ってデザインを作る事にも違和感無く移行する事ができた。何よりも、アナログとデジタル、両方の環境を体験できた事が一番良かった。
デザイン作業のデジタル化を実現したApple Macintosh
面接をパスしてすんなり入社できたのだが、自分の予想以上に苦難の日々が続いた。同時期に採用された男性は、残業の連続に嫌気がさしたのか、昼食を食べに行くと言ったきり二度と戻ってこなかった。これが原因で、良くも悪くも私一人に注目が集まった。所謂下積み時代のスタートである。連日残業に次ぐ残業。薄給で人使いも荒かった。ただ、入社前に決めていた事がある。どんなに辛くても泣き言は一切言わない。何が起きても絶対に辞めない。いつも気負いが顔に出ていたのか、虐めに近い様な嫌がらせも度々味わった。でも怒らずにひたすら耐えた。しかしながら一度だけキレてしまったことがある。社内で全員が談笑中、何かの話の最中に、カメラマンの一人が私をからかった。「キミは入ったばかり。まだ伸びるかどうか分からないだろ」即座に言い返した「間違ってる。あなたより絶対伸びます」この時のやりとりは、今も覚えている。自分からケンカはしなかったが、舐められる事は絶対許さなかった。今も売られたケンカは買う主義。下積み時代と言えども、やんちゃな性格だった。
周囲を黙らせる為には、誰からも認められるしかないなと思った。それすらできない様ではどんな仕事についても一人前になれないだろうと思っていた。実力をつけたいと、週5日は会社に泊まって仕事をした。お昼は喫茶店のランチ、夜はコンビニ弁当とカップラーメン。タバコと缶コーヒーの消費量は増え続ける一方だった。朝から晩まで仕事漬けの日々。夜明け前になると、デザイナー全員が作業分担。毎日午後3時に行われる客先のデザインチェックまで漕ぎ着けた。その甲斐あって、私は社内で認められていき、Kさんや先輩デザイナーがテクニックを教えてくれたり、アドバイスをくれる様になっていた。私が手を挙げて社内でバンドを組んだのもこの頃だった。仕事はキツいが、毎日会社に行くのが楽しいと感じる様になっていた。徹夜明けの日曜日には、「お前ら、江ノ島に行くぞ!」とKさんの運転する車で海水浴に連れて行ってくれた。奥様と娘さんと一緒に暮らしながら、毎晩の様に会社に泊まって仕事をするKさんの姿には胸を打たれた。と同時に、若い自分達への気遣いを忘れないKさんの為にも、どんなに忙しくても、率先して仕事を引き受けた。以心伝心。仕事に対する厳しさと、部下を思いやる優しさ。年末になると、デザイナー達を労おうと、Kさんが親会社を説得してクリスマスパーティーの開催費用を捻出した。1984年の12月、設立1周年のクリスマスパーティーには、彼女も連れてこい!と言われて妻も招待された。ブログを始めて以降、時々自分に問う事がある。もしあの頃に戻れたら、当時の過酷な生活ができるだろうか?答えはNo!だ。あの頃は社内の全員が心を寄せ合っていた。そんな時代の風も吹いていた。個よりも集団や社会を優先する気運もあった。全員が同じ方向を向いていたからできたこと。今は違う。戻れない、戻りたくない。昔は良かったなんて絶対言わない。今の自分の方が好きだしね。
入社翌年の1983年、社内で度々起きていた紛糾が原因でKさんは退社。事態の収集を図ろうと、Kさんと親交があったプランナーが所属先を説得して新会社を設立。その後、声をかけられた私と同僚も移籍した。以来6年間、移籍前と同じメンバーのまま、Kさんの部下として働いた。Kさんから授かったデザインのテクニックは数知れず。一番印象に残っているのは、私が仕事に情熱を失いつつあった頃の叱られた事だ。「章、最近のお前は以前とは別人のようだぞ。オレはお前を一人前にして名古屋に返すのが役目だ」そしてこう続けた。「オレはお前が想ってくれている以上にお前のことを想っているからな。」その時は思い当たる節があった。何かの作業をしていた時、私が仕事に慣れた事で、一つ一つの作業が雑になっていたのだと思う。Kさんに叱られた事は、後にも先にもこれ1回きり。親元を離れて以降、自分の事を心配してくれる人など誰もいないだろうと思っていたので、流石にこの言葉は胸に刺さった。私とKさんの歳の差は9歳。現在は68歳になられているはずだ。教えて頂いた数々のこと。もがいていた頃の楽しい思い出。決して忘れません。ありがとうございました。
☆夏をあきらめて/サザンオールスターズ
徹夜開けの翌日、Kさんの運転で江の島にドライブした車内で聴いた曲。
研ナオコのカバーバージョンもヒットした。
Kさんはサザンの曲が大好きで、この曲を聴くと、
若かりし頃の自分と真夏の徹夜の日々を思い出す。
https://www.youtube.com/watch?v=3FN9OW2ShgU
デザイナーとして世に出た1983年の思い出深い洋楽。
☆Say! Say! Say! /Paul McCartney &Michael Jackson(1983 Extended version)
客先に勤務していた妻と出会った1983年の大ヒット曲である。
ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンがデュエット!と驚いた。
ディスコに行くと必ず流れていた曲だ。
★サウンドのみ。アルバムとはアレンジが異なる12インチシングルバージョン。
https://www.youtube.com/watch?v=tOqGPOcCjLI
☆ ビデオクリップ。
ポールの前妻、リンダ・マッカートニーとマイケルの姉、ラトーヤ・ジャクソンも出演している。
https://www.youtube.com/watch?v=aLEhh_XpJ-0
2020年10月7日DESIGN STORY