さようなら、新月湯。
TOKYO LIFE  STORY❶ 

2020年10月6日TOKYO LIFE STORY

☆私が通っていた頃のイメージはこの様な感じ。
☆近年の新月湯は暖簾がかかっていた様だ。
お気に入りの店や、思い出深い店が突然閉店するとがっかりしてしまう。こんな事ならもっと通っておけば良かったと思っても後の祭り。栄枯盛衰。消えてしまった店は二度と戻らない。時代の風に乗るか、吹き飛ばされるか。それが店舗の宿命とは分かっていても、せめてお別れぐらいさせてくれよと言いたくなる時もある。東京に住んでいた頃、店舗の閉店は日常茶飯事の出来事だった。給料日の週末、酒に弱い自分が仕事仲間に無理やり誘われて出掛けた店は、ボトルキープをした直後に無くなっていた。閉店の予告やお知らせなども一切なし。友人から、東京はそれが当たり前の事なんだよと失笑された事もある。この記事を書くにあたり、私が東京で暮らしていた頃に存在していた店舗がどのくらい残っているかを調べてみた。全滅に近かった。今も残っていたのは、アパート近くにあったセブンイレブンと駅前の中華料理店だけだった。当時から40年近く経過していることを考えれば当然かも知れない。
☆画像中ほどに写る黒い車の前に左に折れる道があり、
 その途中に私が住んでいたアパートがあった。
 右に写る新月湯まで徒歩3分の距離だった。
☆東武東上線北池袋駅 私が住んでいた当時は、
 3色LEDの列車案内表示は無かった。
☆当時のホームから見えたダンス教室の文字。モルタルの壁、文字はガラスに直接描かれていた。
☆北池袋駅、志木、成増方面ホーム
 画像の左側にダンス教室が見えた。
☆私が住んでいた当時から今も残るモリオカ。
表向きにはパン屋さんだが野菜なども売っていた。
モリオカ左の道の先にカフェキャッツがあった。
東京で暮らした8年の独身時代、前半の4年間は豊島区の池袋本町に住んでいた。東武東上線の池袋から各停に乗って一駅、北池袋駅から数分のところに所在した古いアパートだった。北池袋駅のホームから見える他所のアパートには、赤い色で書かれたダンス教室の文字が見て取れた。発展から取り残された様な、寂れた街だったが住めば都。デザイン学校時代、最初に住んだアパートには風呂が無く、新月湯(しんげつゆ)という名の近所の銭湯に通った。壁一面に富士山が描かれたいかにもな銭湯。下足箱の鍵が木札だった事も印象的だった。デザイン学校を無事に卒業後、就職して一年ほど経過した頃、客先の企業に勤務していた妻と出会った。妻は私の様に考え過ぎず、明るく前向きな性格だった。そこに惹かれた。交際を始めて数ヶ月後、妻から田舎に帰るかも知れないと言われた事があった。その一言に驚き、何とかしなければと思った。とっさに言葉が出た。「一層のこと、オレのアパートの近くに住まないか?」その日から物件を探し回った結果、良いところを見つけた。後に板橋区の新築マンションに移り、一緒に暮らすまでの間は、二人とも北池袋のアパートで別々に住んでいた。北池袋時代一番の思い出は新月湯であろうか。仕事でどんなに遅くなっても毎日通った。それまで一度も銭湯に行ったことが無かったのでとても新鮮な気分だった。春は菖蒲湯、冬はゆず湯、季節の移ろいを銭湯で感じていた。妻が近所のアパートに移り住んで来た以降は、連れ立って新月湯に出かけた。南こうせつの「神田川」の様な質素な生活だったが、妻のおかげで毎日楽しく生活する事ができた。新月湯に浸かった後、夏場は民家を改造した小さなゲームセンターでアイスコーヒーとゲームを楽しみ、冬場はミニストップに立ち寄ってホットスナックを持ち帰るのがお決まりのコースだった。お金が沢山無くても幸せを感じていた時期だった。
☆新月湯の脱衣場
☆左に写るラーメン店は、私が住んでいた頃は定食屋だった。
☆画像に写る徳栄は当時から残っている中華屋さん。
 徳栄の数軒先にキッチンマミーが存在していた。
北池袋駅前の商店街には食事処も多く、デザイン学校時代から食生活を支えてもらった。中でもお世話になったのがキッチンマミーとカフェキャッツだった。キッチンマミーは、老夫婦が切り盛りする洋食屋さんで、お昼から深夜まで温かいご飯が食べられる店だった。この店で最も食べたメニューは、ハムオムレツとスパゲティーサラダ。行く度に同じメニューを注文していたので、すぐに顔を覚えられてしまった。店の常連となり一年経過した頃、ドアに一枚の貼り紙を見つけた。近日閉店致します。長い間お世話になりました。◯月◯日まで感謝価格で営業致します。貼り紙を見て唖然とした。その日から閉店までの間は、毎日の様に通っていた事を思い出す。店が最終日を迎えた夜に訪れた時、閉店の理由を店主に聞いた事がある。
仕事に追われていた自分の心の拠り所だったキッチンマミー。

「私達夫婦はもう歳ですからね。ここらで閉めるのが相応しいのではと考えたのです」「‥‥。あのオムレツとサラダはもう食べられないのですね」肩を落として話す私に店主はこう言った。「中川さん、長い間ごひいきいただき、ありがとうございました。どんなに辛い事があっても、それを乗り越えてデザイナーになってくださいよ」最後の食事を噛み締める様に味わった後、後ろ髪を引かれる想いで店を出た。閉店から数週間後、店は解体されて更地になっていた。本当だったのか。思わず呟いた。

ゆったりと時間が流れていくお気に入りの喫茶店だったカフェキャッツ。

一方のカフェキャッツは、独身時代の妻とよく出かけたお気に入りの喫茶店だった。センスの良い食器と心安らぐウッドのインテリア。仕事に追われる日常とは異なり、ゆったりと時間が流れていく店だった。そこにいるだけで心が落ち着いた。そして何よりも食事が美味しかった。妻と一緒に行くと、店主の女性が優しく微笑み、軽く頷いて迎えてくれた事も記憶に新しい。この店も、ある日気がつくと閉店していたが、後に別な場所で再開していたことを知り、安堵した記憶がある。

一つ一つが愛おしい。若かりし頃の日々。

妻が近所のアパートに移り住んで以降は、外食を減らしていった気がする。言うまでも無く、妻が作ってくれたからだ。この頃から、結婚準備中の様な生活を始めていた。給料日になると、仕事帰りの私が駅前の精肉店でステーキ肉を買い求めてアパートに帰った。ステーキを上手に焼くコツを店主に尋ねた。強火で裏と表を30秒ほど一気に焼く事。そのあとは弱火で数分焼きなさいと教わった。教えられた通りに焼いて妻と一緒に食べた記憶は、今も色褪せずに残っている。それがきっかけで、肉を焼くのは今でも自分の役目になっている。

☆右に写る屋根が緑色の店が、私がステーキ肉を買った精肉店。
☆新月湯 廃業の貼り紙
人は誰しも老いていく。お店も同様だ。そして何事にも終わりがある。本記事を作るにあたり、ネットで新月湯を調べたところ、昨年の5月に廃業していた事が分かった。1955年開業、65年の歴史に幕を下ろしていた。近隣住民の心と体を温め続けた新月湯一番の思い出は、徹夜明けの一番風呂だった。誰も入っていない浴槽に足を踏み入れた瞬間の、お湯の熱さと開放感は格別だった。この先もずっと忘れないだろう。

人生の中で出会った、かけがえの無い友人やお店は奇跡に近い巡り合いと言えるだろう。自分が苦悩したり、もがいていた時期に寄り添ってくれた人やお店。その様な心遣いに感謝して、自分がその気持ちを受け継ぎ、これからは自分が寄り添ってあげなければと感じている。少しは大人になったのかな。

♫ 徹夜続きの毎日だった1983年の思い出深い楽曲

☆What A Feeling / 麻倉 未稀

映画「フラッシュダンス」テーマ曲の日本語バージョン。
日本航空の全面協力で制作された「スチュワーデス物語」の主題歌に採用された。
スチュワーデス物語は、主演の堀ちえみが村沢教官(風間杜夫)の元で、
一人前のスチュワーデスに育つ過程を描いたドラマ。訓練所のセットには
実物の客室モックアップが使用され、現役の英語専門教官も出演していた。
大映テレビドラマ特有の泥臭い演出だったがこのオープニングはとても良かった。
本放送終了後、何度も再放送されたので、私は日本語バージョンの印象が強い。
https://www.youtube.com/watch?v=8INYlnsZ9R8

☆Lady, Lady, Lady / Joe Esposito

1983年に公開されて大ヒットした映画「フラッシュダンス」の
サウンドトラックアルバム収録曲。
アイリーン・キャラが歌ったテーマ曲も良いが、
私はこの曲も好きだった。
https://www.youtube.com/watch?v=_1HnkNVy2rM

連日の徹夜明けで意識朦朧だった頃。

2020年10月6日TOKYO LIFE STORY