GAME OVERTOKYO LIFE STORY❸
2020年10月6日TOKYO LIFE STORY
子供の頃から無類のゲーム好きだったので、今までに数台のゲーム機を所有してきた。
❶SEGAマークIII ❷SEGAマスターシステム、❸SEGAメガドライブ、❹NEC PCエンジン、❺NEC PCエンジンDUO R、❻NINTENDOスーパーファミコン❼SONYプレイステーション
❽SONY プレイステーションポータブル❾NINTENDO DS Lite、この他に、MSXパソコン数台も所有していた。また昨年は懐かしさも感じてNEC PCエンジンminiを購入した。但し私が夢中になって遊んだのは❼まで。❾とPCエンジンmini に至っては、購入後一度も使用せず、現在も未開封のまま保管している状態だ。今回はゲームを題材に東京生活を回想してみたい。
❶SEGAマークIII ❷SEGAマスターシステム、❸SEGAメガドライブ、❹NEC PCエンジン、❺NEC PCエンジンDUO R、❻NINTENDOスーパーファミコン❼SONYプレイステーション
❽SONY プレイステーションポータブル❾NINTENDO DS Lite、この他に、MSXパソコン数台も所有していた。また昨年は懐かしさも感じてNEC PCエンジンminiを購入した。但し私が夢中になって遊んだのは❼まで。❾とPCエンジンmini に至っては、購入後一度も使用せず、現在も未開封のまま保管している状態だ。今回はゲームを題材に東京生活を回想してみたい。
頼んでもいないコーヒーが出てきたのは驚いた。
東京で一人暮らしを始めた頃はあちらこちらにゲームセンターがあった。デザイン学校に入学したての頃、秋葉原駅前のゲームセンターに入った時の事。目の前にウエイターらしき人物が現れた。「どうぞ」私の遊んでいたテーブルゲーム機の上にコーヒーを置いた。即座に答えた。「頼んでいませんよ」「無料のサービスですから」???その時は訳が分からずだった覚えもある。ゲームをして、頼んでもいないコーヒーが出てきたのは初めてだったので驚いた。
後に聞いた話では、この店はこれが普通のサービスだったらしい。
後に聞いた話では、この店はこれが普通のサービスだったらしい。
始まりはMSXパソコンとの出会い。
その後就職して、ソニーのMSXパソコンを購入した。当時はファミリーコンピュータ全盛の時代だったが、へそ曲がりの私は他人と同じモノを買うのが嫌でソニーのMSXパソコンを選んだ。MSXパソコンは、マイクロソフトとアスキーにより提唱された8ビットパソコンの共通規格で、家電メーカー数社が参加して商品化を行った。最も力を入れていたのがソニーとパナソニックの2社。ソニーは松田聖子をCMに起用して一大キャンペーンを行った。人々のHIT BITというキャッチフレーズをご存知の方なら私と同世代であろうか。MSXパソコンの売り文句は、拡張性がある安価なホームコンピュータ。様々な事が出来ると謳ったものの、私を含めた消費者にとっては、中途半端なゲーム機にしか思えなかった。また仮にゲーム機として見ても、CPUがZ80Aでは明らかに非力で、色数やスプライトの処理能力など、いずれもファミリーコンピュータに劣るものだった。それが分かっていながらなぜ購入したのか。私は昔から弱者を応援したくなる性格なのだ。MSXは、後にMSX2規格にバージョンアップされたものの、貧弱な性能は否めず、それでも中途半端なゲーム機の域を出ていないものであった。
コナミのソフトがあったからこそのMSX規格
MSXで印象深いゲームはコナミ製のものばかりだった。この時代のコナミは、ハードウエアに依存せず、アイディアと技術力でMSXの弱点をカバーして、数々の傑作を生み出していた。私はそんな企業に敬意を表して応援したくなる。ユーザーの間では、MSXのゲームソフトは、コナミ製品を購入すれば間違いないというイメージができつつあった。グラディウス、けっきょく南極大冒険、悪魔城ドラキュラ、スナッチャーなど、いずれもコナミならではの傑作ソフトであった。そして実際のところ、コナミ以外のメーカーからリリースされたゲームは明らかに見劣りするものが多かった。私が最も購入したソフトのメーカーはコナミに違いない。
2つの致命的な失敗がMSX規格を終焉させた。
コナミのゲームがあってこそのMSXだが、最後まで中途半端な印象を覆す事ができなかった。この結果、MSX規格は失敗の烙印を押され、パナソニックが1994年にFS-A1GTの生産を完了。翌年には出荷も完了して事実上の終焉を迎えた。MSX規格が失敗に終わった大きな影響を原因は2つあると言われている。❶参入メーカーとして、日本電気(NEC)を口説き落とせなかった事。❷同時期に任天堂のファミリーコンピュータが登場した事。この二つの原因は、核心をついている。実際のところ、❶が実現できていたら、状況が変わっていた可能性も否定できない。ただ、今更言っても仕方がない。それがモノの宿命なのだ。私が最後まで使用していたMSX2パソコンは、パナソニックのFS-A1に加えて、キヤノンのV30F。このモデルは、3.5インチのフロッピードライブを搭載していた。
ゼビウスは、今も古さを感じない傑作ゲーム。
上京後、最初に住んだ北池袋のアパート近くには、民家を改造した小さなゲームセンターがあった。後に妻が私のアパート近くに引っ越して来て以降、銭湯の帰りに二人で良く通った。どう見ても普通の民家だったが、なぜかソフトドリンクを注文する事ができる不思議な店だった。この店で夢中になったゲームは、ナムコのゼビウスとギャラクシアン、ニチブツのクレージークライマーの3本である。いずれもビデオゲームの黎明期に製作されたものだが、この中ではゼビウスのクオリティが突出していた。ゼビウスは、今遊んでも古さを感じない傑作ゲームと言えるだろう。企画、アイディア、SE(効果音)。どれをとっても文句のつけようが無いほど秀逸だった。因みにゼビウスは、ゼビオスやバトルスというネーミングのニセモノ(コピー基板)も出回っていた。中身はまるっきりゼビウス。敵機の名称も、本物アンドアジェネシス→偽物アドーアギレネスというもので笑った。
百円玉一枚で3時間プレイした思い出の1942。
1984年以降、私の勤務先は西新宿にあった。JR新宿駅南口から甲州街道沿いに15分ほどの場所。途中にはハンバーガーショップのファーストキッチンや飲食店、パソコンショップなどがひしめいていた。お昼になると、勤務先近くの喫茶店でランチを食べて、西新宿の電気街を彷徨くのがお決まりだった。当時はフロンティアという名のゲームセンターで良く遊んだ。この店一番の思い出は、友人と出掛けた際、百円玉一枚で3時間ほど遊んだ事であろうか。太平洋戦争をモチーフにした1942というシューティングゲームだった。2プレイで始めたのだが、私が余りにも長くプレイしていた為か、友人は途中で漫画を読みふけっていた。ゲームを終えて会社に戻る際、時計を見たら16時だった。それで会社に戻っても、何一つ怒られなかった。普通の会社なら厳重注意。あるいはクビにされてもおかしくないだろう。私達従業員ががいかに信頼されていた証拠と言えるかもしれない(笑)
体感ゲームの登場に心ときめいた。
東京で生活して6年が経過した頃、体感ゲームと呼ばれるものがゲーセンに設置される様になった。大型の筐体にビッグディスプレイ、リアルな効果音とカッコいいBGMを装備していた。中でも当時三羽烏と言われたものが、セガのスペースハリアー、アウトラン、アフターバーナーである。この3種には本当にハマった。私が最も気に入ったものはアウトラン。このゲームにはテーマ性があった。主人公はフェラーリ・テスタロッサに彼女を乗せて公道レースに参加する。コース途中で分岐する道を選択する事で景色が変わり、16通りのルートが選択できた。また、エンディングも異なるものが用意されていた。だから全てのエンディングを見たいと何度もプレイしてしまう巧妙なマーケティングだった。
アクションゲームを卒業してシミュレーションゲームに没頭した。
名古屋に帰って以降は、東京の友人からEPSONのPC-286Vシリーズを購入した。このパソコンはNECの16ビットパソコンPC9801の互換機で、膨大な量のゲームソフトを利用できると購入したものだった。このマシンの購入を機に、シミュレーションゲームに夢中になった。私が最も夢中になったソフトはアートディンクから発売されたA列車で行こうIIIである。このゲームは、鉄道会社を運営して街を発展させる事が目標。このバージョンから会社経営の要素が加わり、仕事が終わると深夜まで遊んでいた覚えがある。
最後に行き着いたところはAppleマッキントッシュ
1993年に会社を起こして以降はAppleのMacuntoshを導入した。東京の友人から勧められていたからだ。トラックボールを動かして、目の前でカーソルが移動する事を見た時は唖然とした。Apple導入を決断したきっかけは、本ブログでイラストを描いてくれている仕事仲間によるところが大きい。後にAdobeのDirectorを購入してプログラミングを独学でマスターした。これにより生まれたのが、自身で制作している動く鉄道図鑑「グラフィックトレイン」である。当時の私は、まだ30代後半だったので、プログラミングをマスターするのも早かった。しかしながら神経を使う為か、仕事以外でコンピュータを触る事が嫌になり、徐々にゲームから興味が薄れていった。また一昨年には入院して生活の改善を迫られ、夜遅くまでプログラミングに興じることも断ち切った。現在はiPad proも所有しており、通常の仕事はこれ一台できるようになった。そして、ゲームに興ずる事もほとんどゼロになりつつある。
今一番楽しいと感じている事は、ブログを綴る事かもしれない。
正直に言うと、ゲームに割く時間があれば、もっと別な事に時間を使いたいと思っている。何事にも、その時の風というものがある。時代の風、自分の中で靡いている風、この風を受けて生じる想いが行動になる。今の私にとって、ゲームのプライオリティーは極めて低い。来年還暦を迎える私にしてみれば当然のことだ。今一番楽しいと感じている事は、ブログを綴る事かもしれない。この世に自分が生きていた証になるからだ。ゲームに興じていた頃は、漫然と生きていた気がする。もはや遥か彼方の思い出になりつつある。
★思い出のアーケードゲーム
☆セガ アウトラン(1986)
BGM3曲を順にセレクトしたロングプレイの動画。
私が最も遊んだコースは、分岐点で常に左を選択するコース。
エンディングのオルゴールを聴くと当時の思い出が一気に蘇る。
https://www.youtube.com/watch?v=ELUl-cAtUIE
☆コナミ グラディウス2(1988)
コナミ の代表作と言っていい。
プロミネンスをすり抜けるステージ1から
夢中になってプレイした。
ステージ2のBGMは特に秀逸である。
https://www.youtube.com/watch?v=T0ZFJSsIxFA
コナミ の代表作と言っていい。
プロミネンスをすり抜けるステージ1から
夢中になってプレイした。
ステージ2のBGMは特に秀逸である。
https://www.youtube.com/watch?v=T0ZFJSsIxFA
☆セガ ギャラクシーフォース2 (1988)
それまでとは異なる、宇宙を舞台にした体感ゲームで、
ミステリアスなBGMも良かった。
操縦席が360度回転する超大型の筐体だったので
周りの客から視線が注がれて恥ずかしかった。
https://www.youtube.com/watch?v=QoGaj2HnVUI
2020年10月6日TOKYO LIFE STORY