SONY WV-TW2
救世主?疫病神?
ビデオ加工に四苦八苦。
CD-ROM制作事業
ソニーデザイン❷ 

2020年11月20日SONY DESIGN

☆SONY WV-TW2
今から24年前の1996年、変わったビデオデッキが発売された事をご存知の方はおられるだろうか。ソニーのWV-TW2、通称「ダブルビデオ」である。VHSハイファイビデオと8ミリビデオ、一台で二つの異なるフォーマットを録画・再生できるビデオデッキである。フロントには2種類のテープ挿入口、向かって左が8ミリビデオ、右がVHSビデオの斬新なデザイン。8ミリビデオを使いこなしていたソニーファンの私としては、これは買うしかないだろうという気持ちであった。私がこの製品の存在を知ったのは、マルチメディア事業に参入を決断してCD-ROM制作事業を始めようと画策した事がきっかけである。
収益性が低いデザイン事業に嫌気がさしていた。
主観ではあるが、デザイン制作事業の欠点は収益性の低さである。仕事を発注した事で、一つ一つの作業をタダと思い込んでいるクライアントがあまりにも多い。決してそんな事は無い。一枚のコピーを取るにも、紙代、トナー代、電気代、本体のメンテナンス料金など様々な経費が生じる。これに加えて人件費という最も大きな経費が加わる。その上でデザインが制作されている事を理解している人が殆どいない。私が東京で仕事をしていた頃は、サービス残業が当たり前であった。グラフィックデザイナーとして雇われていた当時、一度たりとも満足できるボーナスを頂いた記憶がない。その反動なのか、名古屋に戻り、友人から紹介されたデザイン会社に移籍した後は給与の交渉も自身で行った。30歳で35万円ほど頂いていたが、仕事はできる人間のところに集中するもの。日々多忙を極めていた。ある年の夏、ボーナスが一円も出ない時があった。共に働くデザイナーの気持ちを汲み取り、私が社長に直訴した。あんなに稼いだにも関わらず、なぜボーナスが出ないのか。返ってきた答えに愕然とした。「会社にお金を残す必要などないと思っていた」この人はアホかと思った。経営者の資格ゼロ。元より、他人の心が全く分かっていない。こんな無能な経営者の元ではやっていられないと数年で退社した。その後独立。有限会社アムトレックを設立して稼ぎまくった。自身で設立した企業なので待遇は改善できたのだが仕事内容は昔のまま。ちまちました仕事の依頼ばかりで、デザインの制作事業に行き詰まりを感じていた。
デザインの良し悪しは、主観で判断される。
私の経験上、デザインの良し悪しは、主観で判断される事が殆どである。クライアントの体質にもよるが、自社の間違いや能力不足ならまだしも、どうでもいい事で何度も直しが入る。これではあまりにも収益性が低すぎる。デザイン技能を活かしながら、もっと幅広く事業展開できないものかと思案していた時期だった。あれこれ悩んだ末に思いついたのがマルチメディア事業への参入である。当時はパソコン雑誌などで、マルチメディア時代が到来すると盛んに言われていた。月刊誌にはCD-ROMが付属。様々なインタラクティブコンテンツが登場していた時代であった。これならデザイン制作事業を続けながら、新しい事業展開が図れるのではないかと期待していた。マルチメディアで最も期待された事はビデオ映像やサウンドが取り込める事である。製品カタログや企業案内、社員の営業ツールなど、様々な分野に活用できると期待されていた。そこでビデオ映像の取り込み用に購入したのがダブルビデオである。
☆当時の父の名刺
 本業と私の企業の取締役、2つの役割を担っていた頃
好きな道に飛び込んだら良い。
マルチメディア事業への参入について真っ先に思い出すのは、今は亡き父に相談した時のことである。今から27年前、私が有限会社アムトレックを設立したきっかけは、父が行っていた工作機械販売業を継がなかった事に起因する。工作機械を一言で説明するならば、機械を作るための機械。自動車部品等の工業製品を製造する機械の事である。高校生頃の私は、父の仕事には何の興味もなく、父が話してくれる業界の話も理解できなかった。これについては以前から父に話していた。「父さん、悪いけど俺は父さんの商売は継がないよ」当時の父はこう答えた「もはや子供が家業を継承する時代では無い。好きな道に飛び込んだら良い」その後私はグラフィックデザイナーを目指して上京した。東京で8年間生活。その後名古屋に戻り1993年、自身の会社アムトレックを設立した。私が代表取締役、父に取締役を依頼した。設立の手続きは全て自分で行った。法務局に何度も足を運び定款を修正した。手続きを担当してくださった方からこう言われた。自分で設立手続きをする人は珍しいです。大変ではないですか?(見れば分かるでしょ。三度目の修正だよ)社長になる以上、それぐらい自分でできなければダメだろうと思っていたのだ。私の事務所は実家の敷地内にある。なぜかというと、父の商売を継がなかった代わりに、将来二人で一緒に仕事ができればと思っていたからである。設立後は父の事務所内に二台の机を並べて、互いに別々の仕事をしていた。もちろん毎月の家賃も納めていた。
☆毎月請け負っていたFM愛知のリスナー向け情報誌「A・CLUB」
 表紙のデザインはペーパークラフトで作成していた。
マルチメディア事業に参入して活路を見出そうとしていた時代。
独立して数年は事業も軌道に乗り順調だった。FM愛知のパブリシティデザインをレギュラーワークとして勝ち取り、安定経営を維持できていた。また同時に、自分自身の文章力を活かしたいという思いから大日本印刷の企画書制作も積極的に請負っていた。大日本印刷の企画書制作は最高でも10万円と聞いていた。だが私は、依頼された企画書に、様々なビジネスアイディアを盛り込み、店舗の外観パースなども自身で描いて提出していた。所謂付加価値を付けていたのだ。その結果、最低でも20万円ほど請求させていただくことができていた。どんなにキツイ日程でも引き受けたことで信頼されていたのだろう。夏休みに突然言われた企画書の制作依頼もあった。この時は一週間かかりきりで仕上げた。代金は100万円。きっちり請求させていただいた。キツイなぁと言われながら、支払い能力があるのが大日本印刷の凄いところ。しかしながらその数年後、景気の悪化と共に企画書関連の仕事が激減、FM愛知1本のみの状態に陥ってしまった。これは危険だと思い始めた。周囲のデザイン会社は次々に倒産や閉鎖していった。自社は何とか持ち堪えていたものの、このままでは大変な事になると分かっていた。何事にも過去にすがるのが大嫌いな自分は、敢えて困難な道を選択した。朧げながら構想ができていたマルチメディア事業への参入である。
最初から考え過ぎると前へ進めなくなるぞ。
ある日の夜の事。父に話したい事があると切り出した。「父さん、こんな事したいのだがどう思う?」私の父は新し物好きで、クリエイティブな事に対してはいつも興味を示して賛同してくれた。「面白いじゃないか。章、アムトレックはお前が作った会社だ。あれこれ考えず、やってみたら良い。何か問題が生じても、そこで立ち止まって考えればいいじゃないか。最初から考え過ぎると前へ進めなくなるぞ」父は、私が考え過ぎる性格を見据えて助言してくれたのだろう。そんな父の考えに後押しされて、マルチメディア事業への参入を決断した。その日から、温めていた構想を企画書に起こした。「バーチャルテクノピアCD-ROM」テクノピアとは、日刊工業新聞社が主催していた工作機械関連見本市の名称である。当時は毎年のように出展者が増加傾向にある大型見本市であった。私の構想は、実態に加えて仮想でも行い、出展者の間口を広げてはどうかと提案する内容だった。当時は、日刊工業新聞社から多数の販促物制作を請け負っていた。私が出すアイディアやデザインが斬新だと気に入られていた。従ってここが一番攻めやすいだろうと考えた。担当者にアポを取り、電話で概略をお話しした。対応してくださった方は事業部長であった。「実はそれをやりたいと思っていたところです。ぜひプレゼンテーションをお願いします」渡りに船。願っても無い事と期待に胸が膨らんだ。プレゼンテーション期日の約束を取り付けて、万全の準備で挑んだ。
☆日刊工業新聞社「バーチャルテクノピア」CD-ROM企画書
強気で攻めの姿勢だった。
仮想展示会を実現させる為には、その意義とメリットを世に知らしめる事が大前提になるだろうと考えていた。優れた企画であっても、仮想と名がついただけで、ドン引きする人が多かったのも事実。相手が年配の経営者となると、デジタルの話はご法度の時代であった。ましてや愛知県は、モノづくりのメッカである。まずは客先社内と、出展者のコンセンサスを取り付けるのが急務と考えた。仮想展示会で何ができるのか。出展者や来場者に認知させるのが実現への近道であろうと考えていた。その為に、まずは今年の見本市で、パソコンを使ったイベントの実施を提案した。その日から企画書を作り、プレゼンテーションを行った。客先の一部社員は、怪訝な表情を浮かべる人もいたが、展示会の責任者である事業部長には大変喜ばれた。一通り説明した後、イベント実施の為の見積書を提示した。企画立案とプロデュースの一式で200万円。強気で攻めの姿勢だった。当時取引のあったキヤノン販売から、会場で使用する大画面カラーモニターと、Apple製パソコンの無料レンタルも取り付けていた。この企画には自信があった。
大丈夫、絶対取れる。自信に満ち溢れていた自分。
プレゼンテーションの終了後、事務所に戻って父に報告した。「章、いけそうか?」「大丈夫、絶対取れる」数日後、新聞社から「やりましょう」と連絡が来た時は、思わずガッツポーズをしていた。週末には父と母、妹を連れだって外食に出かけた。「おめでとう。よかったなぁ」両親から言われた時はグッときた。あの時、自分の事のように喜んでくれた父はこの世にいない。元より、私が大学受験に失敗して人生を悲観していた頃、上京を承諾してくれたのも父だった。自身の商売が苦しいにも関わらず、支援してくれたのも父。心優しい父に報いるためにもと日々営業を行なった。その甲斐あって数社から仕事の依頼が来た。当時はこれはいけるぞと意気込んでいた。

☆オーサリング作業に購入したDIRECTOR
圧縮作業に苦悩したビデオ加工。身も心も疲れ果てていた自分。
ダブルビデオを購入した日からビデオ映像の取り込み作業に熱中した。ビデオを取り込み、パソコンでスムーズに再生するためには、コンプレッションと言われる圧縮作業が不可欠になる。これが極めて面倒な作業なのだ。圧縮レベルは予め設定できるのだが、結果はやってみないと分からないものだった。少しでもレートを下げるとブロックノイズが増えてしまう。見せたい部分がノイズだらけになってはCD-ROMにビデオを収録する意味がない。仕事を請け負った以上後戻りはできない。クオリティの高いビデオ映像の取り込みを実現する為に、何冊もの本を購入して猛勉強した。これと並行して様々なメディアを制御するオーサリング作業も始めた。オーサリングを一言で言うとテレビ番組や舞台を進行させる台本のようなものである。これにはAdobeのDirectorを購入して行った。
一文字でもスペルを間違えると動作不能。スクリプティングには頭を抱えた。
この製品は、簡単なシナリオであれば、特別な知識が無くてもコンテンツ製作ができるものであったが、高度なコンテンツを製作したい場合は、専門の言語を用いてスクリプティングせねばならない。専門の言語は英語に近い文法だった。英語好きの私に取っては比較的扱いやすいものではあったが、一文字でもスペルを間違えると動作不能になるデリケートなものだった。従ってオーサリング作業も時間を要して困難を極めた。CD-ROM制作は、自社のような零細企業では何もかも自分一人で行わねばならない。毎晩夜遅くまで寄り添ってくれたのは、ブログをサポートしてくれているケロヨンF谷だけだった。私も彼女も毎日深夜まで会社に残って作業していた。当然のことながら日々のストレスは蓄積されていく一方。社内は毎日ピリピリしていた。なぜ自分達だけこんなに苦しまなければいけないのか。自身で切り開いた道とは言え、責任感だけ背負って続けていくのは辛かった。親子関係もぎくしゃくし始め、次第に制作意欲すら失っていった。
☆自社で制作したCD-ROM作品
仕事を取るのも自分。作るのも自分。分かりきっていた事とは言え辛かった。
この頃になると、マルチメディア事業に参入した事自体後悔し始めていた。仕事を取るのも自分。作るのも自分。誰も助けてくれない。たとえ疲れていても、仕事を続けなければ終わらせる事も出来ない。当然の事と分かってはいたが、休日が取れない生活には辟易していた。だがその甲斐あって、私の評判を聞きつけたお客様からも仕事の依頼が来るようになっていた。お客様から顧客獲得の要請を受けて、飛行機で新潟まで飛んだ事もある。交通費と宿泊費は全て自社負担。お客様への感謝と義理を重んじる父の助言であった。自分としては様々な手を打ったつもりではあるが、受注に至らない事も多々あった。結果手元に残ったのは3枚のCD-ROMのみ。デジタルコンテンツの制作ノウハウは、自社制作の動く鉄道図鑑「グラフィックトレイン」に引き継がれたが、事業拡大の起爆剤にはならなかった。これについては、❶作業の手間がかかり過ぎる❷収益性の低さが最大の要因である。
☆Apple QuickTime使用許諾契約書
Appleに許諾申請をした事で仕事への自信が高まった。
CD-ROM制作を行う上で様々な体験をした。自分の中で最も印象深い出来事は1996年に制作依頼されたCD-ROMに、アップルコンピュータ(現在の社名はApple )のQuickTime 機能拡張ファイルの許諾申請をした事である。当時のパソコンはまだ貧弱な機能で、ビデオ映像を再生する為には、クイックタイムと呼ばれる機能拡張をインストールしないとできなかった。CD-ROMはどのメーカーのパソコン、またどのOSで使用されるかは製作者側では予測できない。従って、ウインドウズとアップル、いずれのOSでも動作可能な状態にしなければならない。そこでクイックタイム機能拡張ファイルをCD-ROMに収録する事が不可欠であった。これを実現する為には、クイックタイムの使用許諾申請が必要になる。この手続きは自分でしなければならない。そんな事は今まで一度も行った事がなかった。だがこれをクリアできないと、獲得した仕事がパーになる。なんとしても実現しなければの一心であった。まずは英文を作成したり翻訳してくれる業者を探した。タウンページで調べた結果、名古屋市内に数社が存在している事が分かった。決め打ちで電話をかけて要点を説明した。担当者が親切な女性であったことも幸いであった。それ以降何度も足を運んだ。数週間を経て申請書類が完成。アップルコンピュータへ郵送した。それから数日後、使用許諾認可の書類が届いた。この時はとても嬉しかった事を今も覚えている。この経験は私の財産であり、仕事の自信に繋がった。
希望と失望の繰り返し。だが情熱に溢れていた日々だった。
自社を始めとして、様々な企業が参入したCD-ROM市場であったが、インターネットの普及とともに、一気に冷え込んでいった。残念ながら、事業拡大の救世主にはならなかった。いつしかマルチメディアの言葉も聞かれなくなりCD-ROM付きの月刊誌は次々に廃刊の道を辿った。こうして考えると、自身の仕事も、メディアの進歩に伴う環境変化に左右されながら続いてきたものとつくづく感じている。私の個性を活かして上京させてくれた父と母。とりわけ、いつなんどきも支援してくれた父と、仕事仲間のケロヨンF谷には心から感謝をしている。
自社のサインボード。一つの看板に二つの社名
上が父の店。下が私の会社名。
父に感謝を示す為、当時のままの状態で掲げている。

2020年11月20日SONY DESIGN