Why So Blue? 〜大病の記録〜 2021年7月30日
沖縄が梅雨明けしたとの報道を受けて、この話題を綴ろうかなと考えた。3年前に患った大病の話である。正直に言えば、思い出したくない話題であり、今まで記述するのを躊躇ってきたのが本音。だが発症から三年経過した事もあり、これを機に断ち切ろうと考えた。そこで今回から三回連続でテーマにさせていただきたい。
発症は2018年6月14日の木曜日。事務所で電話をかけていた時の事。自分の言葉が滑らかに発音できていない事に気づいた。呂律が回っていないと言った方が正しいかもしれない。自分はどちらかと言えば早口で話すタイプだ。それ故に、この時は明らかな違和感を感じた。当時は西城秀樹さんの脳梗塞が報道されていたこともあり、もしかしたら自分もそうではないだろうかと考えた。だとしたら、一刻も早く病院に行かないと大変な事になる。焦る気持ちを抑えようと、まずは自宅へ戻って休む事を考えた。仕事の手を止めてプリウスに乗り込み自宅へ向かった。
運転は問題なかった。いつも通過している大きな交差点でも停車してしっかり左右確認の上発進した。数分後に自宅に到着。当時は連日35度以上の酷暑日が続き、記録的な暑さの年であった。エアコンのスイッチを入れて強に設定。まずは喉の渇きを潤そうと台所にあった2Lのペットボトルを手にした瞬間の事。ズドンという音と共に、左手からするりと抜け落ちた。あれ?と思い再度手にしてもまた同じ結果だ。これは只事ではないと思い、妻に連絡した。その後、帰宅した妻と共に病院に行くと、すぐにCT撮影となった。CTはMRIとは異なりすぐに結果が出る。画像を手にした主治医の言葉は私の耳にもしっかりと聴こえた。「あ〜出血してる。すぐに入院の準備して」この一言で素人の自分にも病名が分かった。脳出血だ。正確には右前頭葉皮質下出血。即入院だった。身体中に管が繋がれた自分の姿を見た妻は、もしかしたらダメかもしれないと思ったという。
入院時に主治医から言われた事を思い出す。この状態で事故を起こさずに運転できましたねと。入院時の血圧は、軽く200を超えていたらしい。だが自分では正常な感覚で運転していたつもりだった。交差点に停車した記憶もあり、左右確認して発進の記憶もあった。先生の言われるように、万一交通事故を起こしていたらと考えるとゾッとする。これもひとえに唯々運が良かったのだろう。
入院翌日の朝、再度CT撮影の結果、出血範囲が広がっていないとの事。これにより主治医から、内科的療法で進めますと言われて一安心した事を今も覚えている。もし出血が止まらなかったり、あるいは範囲が広がっていたら手術の選択だったらしい。頭にメスを入れる事は障害が残る可能性もある。それは絶対に避けたいと思っていた。元より入院など初めての事だ。手術を回避できた事は良かったのだが、ひとつだけ気がかりな事もあった。入院時には気にしていなかったのだが、左手で拳を作る事が出来ないのだ。指を折ると激痛が走るため曲げられないのだ。主治医曰く「それは脳出血が原因ですね。出血が引けばできるようになりますよ」なるほどね。最初は納得して安心していたのだが、中々回復しない事に焦ったのも事実。
初めての入院生活には戸惑う事も事も多かった。発症当時の私はICUに入院していた。当然の事ながら入浴はできない。数日に一度看護師さんが体を拭いてくれるのみである。真夏に風呂に入る事が出来ないなど考えた事もなかった。私は毎日入浴する。シャンプーも同様だ。入院すると、当たり前の事が突然出来なくなる事と分かった。入院直後から提供された食事についても良いイメージがない。正直に言えば事のほか不味いと感じた。品数が少なく塩分が控えめな事は理解できるが、味付けが極めてよろしくないのだ。しかもご飯の量が半端なく多かった。嫌がらせかよと思ったほどだ。そのような状況下において唯一救われた事は、可愛い看護師さんが多かった事だけである(笑)
入院して数日後、リハビリが始まった。脳出血は少しでも早いリハビリが大切だという。リハビリの内容は、症状別に多岐にわたる。はじめにカウンセリングとテストを受けた。今日は何月何日ですか?簡単な計算や常識テストなどである。自分は致命的な障害は皆無だったので、全て問題なくパスした。問題は指の動きの回復である。だがこれが一向に改善しなかった。ある日の事、相談員の女性が私を尋ねて病室に来てくれた。指の不具合を解消する為にも、リハビリ専門病院へ転院されてはどうですかと。私が入院した地元の総合病院は、設備が旧い上に狭い。またリハビリ専門のスタッフも少ないため、満足なリハビリが実現できていないという。その後妻と相談した結果、気分転換を兼ねて転院しようと決断。転院先候補を調べて資料を取り寄せていただいた。私達が選択した病院は、地下鉄利用で乗り換えなしに行ける西区の済生会(さいせいかい)病院である。
済生会病院は、院内設備をリニューアルして1年ほどのリハビリ専門病院。新しくて清潔な設備と広いトレーニングルーム。決め手はそこだった。転院当日の朝。早めに目覚めて食事と着替えを済ませた。お気に入りのジーンズとシャツを着て身支度を済ませた。ここで奇跡が起きたのだ。看護師さんが私の病室を訪れて最後の検温をしてくれた。その後「今日は転院ですね。では最後に、私の手を握ってみて」と言った。私は看護師さんの手を握った。それまでは激痛で握る事ができなかったのだが、なぜかすんなりと握れたのだ。「あー握れたね、よかった」看護師さんが驚いた表情をして微笑んでくれた。これには自分でも驚いた。昨日までは激痛で指を折る事が出来なかった。それが急にできるようになるとは。暗く沈んだ気分に一筋の光が差し込んだ気がした。その後部屋を片付けて精算を済ませた後、お世話になった看護師さんに感謝の気持ちを伝えた。妻と共にタクシーに乗り込み自宅近くの病院を後にした。流れる車窓の風景を見ながら、一日も早くこの地に戻って来たいと考えると自然と涙が流れた。堪えても堪えても止めどなく流れ出てきた。だが苦難はまだ始まったばかりだ。以下次週に続く。
☆Why So Blue/Paul McCartney(2007)
https://www.youtube.com/watch?v=-GbicUaxQMI
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2021年7月30日
沖縄が梅雨明けしたとの報道を受けて、この話題を綴ろうかなと考えた。3年前に患った大病の話である。正直に言えば、思い出したくない話題であり、今まで記述するのを躊躇ってきたのが本音。だが発症から三年経過した事もあり、これを機に断ち切ろうと考えた。そこで今回から三回連続でテーマにさせていただきたい。
発症は2018年6月14日の木曜日。事務所で電話をかけていた時の事。自分の言葉が滑らかに発音できていない事に気づいた。呂律が回っていないと言った方が正しいかもしれない。自分はどちらかと言えば早口で話すタイプだ。それ故に、この時は明らかな違和感を感じた。当時は西城秀樹さんの脳梗塞が報道されていたこともあり、もしかしたら自分もそうではないだろうかと考えた。だとしたら、一刻も早く病院に行かないと大変な事になる。焦る気持ちを抑えようと、まずは自宅へ戻って休む事を考えた。仕事の手を止めてプリウスに乗り込み自宅へ向かった。
運転は問題なかった。いつも通過している大きな交差点でも停車してしっかり左右確認の上発進した。数分後に自宅に到着。当時は連日35度以上の酷暑日が続き、記録的な暑さの年であった。エアコンのスイッチを入れて強に設定。まずは喉の渇きを潤そうと台所にあった2Lのペットボトルを手にした瞬間の事。ズドンという音と共に、左手からするりと抜け落ちた。あれ?と思い再度手にしてもまた同じ結果だ。これは只事ではないと思い、妻に連絡した。その後、帰宅した妻と共に病院に行くと、すぐにCT撮影となった。CTはMRIとは異なりすぐに結果が出る。画像を手にした主治医の言葉は私の耳にもしっかりと聴こえた。「あ〜出血してる。すぐに入院の準備して」この一言で素人の自分にも病名が分かった。脳出血だ。正確には右前頭葉皮質下出血。即入院だった。身体中に管が繋がれた自分の姿を見た妻は、もしかしたらダメかもしれないと思ったという。
入院時に主治医から言われた事を思い出す。この状態で事故を起こさずに運転できましたねと。入院時の血圧は、軽く200を超えていたらしい。だが自分では正常な感覚で運転していたつもりだった。交差点に停車した記憶もあり、左右確認して発進の記憶もあった。先生の言われるように、万一交通事故を起こしていたらと考えるとゾッとする。これもひとえに唯々運が良かったのだろう。
入院翌日の朝、再度CT撮影の結果、出血範囲が広がっていないとの事。これにより主治医から、内科的療法で進めますと言われて一安心した事を今も覚えている。もし出血が止まらなかったり、あるいは範囲が広がっていたら手術の選択だったらしい。頭にメスを入れる事は障害が残る可能性もある。それは絶対に避けたいと思っていた。元より入院など初めての事だ。手術を回避できた事は良かったのだが、ひとつだけ気がかりな事もあった。入院時には気にしていなかったのだが、左手で拳を作る事が出来ないのだ。指を折ると激痛が走るため曲げられないのだ。主治医曰く「それは脳出血が原因ですね。出血が引けばできるようになりますよ」なるほどね。最初は納得して安心していたのだが、中々回復しない事に焦ったのも事実。
初めての入院生活には戸惑う事も事も多かった。発症当時の私はICUに入院していた。当然の事ながら入浴はできない。数日に一度看護師さんが体を拭いてくれるのみである。真夏に風呂に入る事が出来ないなど考えた事もなかった。私は毎日入浴する。シャンプーも同様だ。入院すると、当たり前の事が突然出来なくなる事と分かった。入院直後から提供された食事についても良いイメージがない。正直に言えば事のほか不味いと感じた。品数が少なく塩分が控えめな事は理解できるが、味付けが極めてよろしくないのだ。しかもご飯の量が半端なく多かった。嫌がらせかよと思ったほどだ。そのような状況下において唯一救われた事は、可愛い看護師さんが多かった事だけである(笑)
入院して数日後、リハビリが始まった。脳出血は少しでも早いリハビリが大切だという。リハビリの内容は、症状別に多岐にわたる。はじめにカウンセリングとテストを受けた。今日は何月何日ですか?簡単な計算や常識テストなどである。自分は致命的な障害は皆無だったので、全て問題なくパスした。問題は指の動きの回復である。だがこれが一向に改善しなかった。ある日の事、相談員の女性が私を尋ねて病室に来てくれた。指の不具合を解消する為にも、リハビリ専門病院へ転院されてはどうですかと。私が入院した地元の総合病院は、設備が旧い上に狭い。またリハビリ専門のスタッフも少ないため、満足なリハビリが実現できていないという。その後妻と相談した結果、気分転換を兼ねて転院しようと決断。転院先候補を調べて資料を取り寄せていただいた。私達が選択した病院は、地下鉄利用で乗り換えなしに行ける西区の済生会(さいせいかい)病院である。
済生会病院は、院内設備をリニューアルして1年ほどのリハビリ専門病院。新しくて清潔な設備と広いトレーニングルーム。決め手はそこだった。転院当日の朝。早めに目覚めて食事と着替えを済ませた。お気に入りのジーンズとシャツを着て身支度を済ませた。ここで奇跡が起きたのだ。看護師さんが私の病室を訪れて最後の検温をしてくれた。その後「今日は転院ですね。では最後に、私の手を握ってみて」と言った。私は看護師さんの手を握った。それまでは激痛で握る事ができなかったのだが、なぜかすんなりと握れたのだ。「あー握れたね、よかった」看護師さんが驚いた表情をして微笑んでくれた。これには自分でも驚いた。昨日までは激痛で指を折る事が出来なかった。それが急にできるようになるとは。暗く沈んだ気分に一筋の光が差し込んだ気がした。その後部屋を片付けて精算を済ませた後、お世話になった看護師さんに感謝の気持ちを伝えた。妻と共にタクシーに乗り込み自宅近くの病院を後にした。流れる車窓の風景を見ながら、一日も早くこの地に戻って来たいと考えると自然と涙が流れた。堪えても堪えても止めどなく流れ出てきた。だが苦難はまだ始まったばかりだ。以下次週に続く。
☆Why So Blue/Paul McCartney(2007)
https://www.youtube.com/watch?v=-GbicUaxQMI