大病の記録❷ オレ、死ぬのか‥ 〜安堵から悲観へ〜 2021年8月7日
前回は入院から転院までを綴った。今回は転院以降を回想してみよう。自宅近くの総合病院を退院してタクシーで移動。西区の済生会病院に到着した。まずはカウンセリングと健康診断を受けた。カウンセリングについては、脳出血発症時の状況について詳しく尋ねられた。当時の記憶を辿り、包み隠さず全てを話した。生まれて初めて死の恐怖に直面して怖かった事。手術になるかもしれないと怯えていた事。医師はメモを取りながら私の話に耳を傾けていた。その後健康診断。血圧と尿検査、心電図検査を行なった。医師から指摘された事は、もう少し体重を下げましょうの一点だけであった。今のところ大きな問題はありません。血糖値は正常、糖尿もありません。まずは一安心。だが一方、気がかりな事もあった。今のところはの部分である。もしかしたらこの先、良くない事が起きるのではないか?と勘ぐってしまう。やはり脳出血という病名が相当に堪えている。
脳出血最大の要因は高血圧である。私は発症以前から、血圧を気にした事など一度もなかった。19歳で上京。東京で8年間生活したのだが、一度も医者にかからずだった。そんな事もあり、体力に過信していたのだ。自分は健康そのものだと。独身時代から肉が中心の食生活。塩分も取り放題の荒れたものであった。また独立した事で、深夜まで仕事漬けが当たり前の生活になっていた。更に仕事以外にも、様々な問題処理と判断を迫られてストレスも溜まる一方。その結果として、血圧に無関心になっていたのだろう。
脳出血という病気は本当に恐ろしい。運が悪いと一瞬で命を絶たれる事もあるし、重度の障害が残る可能性もある。一般には、出血部分の反対側に障害が生じると言われている。私は右に出血したため、左に障害が出る可能性があった。入院時に指が曲げられなかった事実もこれにあたる。転院の際、受け入れ先の医師から指摘された危険は転倒である。歩行においては、自分では一切問題ないと思っていたのだが、万一の事を考えて車椅子を使用する事に同意した。
済生会病院は患者一人に対して三部門の療法士がチームとなりリハビリをサポートしている。理学療法、作業療法、言語聴覚の三部門である。それぞれの分野で、最も効果的だと思われるリハビリプログラムを考案するらしい。そして転院初日からリハビリが始まった。リハビリは午前と午後の二部構成。理学療法においては、歩行訓練と柔軟体操が主なメニューである。平衡感覚の向上を目指す運動、体重を下げるエアロバイクなどである。それらは屋内外を問わず多岐に渡った。作業療法においては頭脳テストの印象が強い。朝から夕方までテスト責めのような感じだ。同じ問題が出されてこちらから指摘した事も多々あった。「その問題、数日前に回答しましたよ」療法士は一度に数名を担当しているため、混乱しているのだろう。
作業療法という言葉を聞いて違和感を感じる人も多いはず。今ひとつ内容が分からないからだ。簡単に言えば、生活に関連する全ての事を対象にしたものである。食事や着替えから入浴まで全てが対象であると伺った。済生会病院には、脳出血や脳梗塞を患った人が大勢リハビリに訪れていた。そして殆どの方が障害を抱えていた。歩行が困難な人、二桁の足し算や引き算が出来ない人、自分の住所や名前を言えない人。上手に食事を取れない人など千差万別であった。自分は顕著な障害が出ていない事もあり、唯々幸運だと感じた。
そして最後は言語聴覚療法である。これについては、見る、聞く、話す能力のリハビリである。この科目に限り女性療法士が担当した。この人については、医師特有の少し意地悪な発言が多い人だなと感じていた。ある日の事。12桁の数字を暗記するテストがあった。私は記憶力には自信があるので、全てクリアした。その際にはこんな事をいわれた。「12桁の数字を暗記してスラスラ言えたのは中川さんくらいですね」お世辞なのかもしれないが、私には嫌味だと感じられたのでこう返した。「んな事ないでしょ。誰でもできますよ。因みに私は16桁のカード番号も二種類暗記していますよ」「‥」口の悪い療法士を寡黙にさせるのはこれで十分だった。
済生会病院の良いところは多々あるが、最も優れていた事は食事のクオリティが高い事である。ご飯はふっくらと炊いてあり、料理の味付けが極めて良かった。転院前の地元病院に比べたら雲泥の差である。朝食のお味噌汁はしっかりと出汁が効いていた。入院患者にとって食事は最大の楽しみである。食事が美味しいと感じるだけでもリハビリの意欲が増すのだ。またメニューにおいても栄養士さんの工夫が感じられた。週に一度だけだが、昼食のメニューを選択できた。患者の気持ちを考えて仕事をしてくださるプロの印象が残った。私自身は、とろろそばや冷やし中華など、食欲が減退しがちな真夏に頂きたいメニューをリクエストした。
リハビリは順調に進み、いつしか8月に突入していた。ある日の事。作業療法中に驚くべき体験をした。療法士からプリントが配布され、問題を見て回答を記述してくださいと言われた。こんなの簡単だと思いながらスラスラと回答した。その後、人の体を描いてください。服装は何でも構わないですよと。私は日常の服装をイメージして描いた。20分ほど経過した後に答え合わせを行った。合格だろうと思っていたのだが、作業療法士から間違いを指摘されたのだ。「中川さん、ここを見てください。左の腕が無いですよ」「???」呆然として言葉が見つからなかった。グラフィックデザイナーの自分が左腕を描き忘れていたのだ。
この意味がお分かりいただけるだろうか。描き忘れのミスではないのだ。脳出血が原因で軽い障害が起きていたのだ。右に出血したから左に障害が出る。この法則どおりに左腕の意識が欠落したらしい。言われてみれば転院当時にも思い当たる事があった。初めてのリハビリの際、スニーカーのシューレースが緩んでいる事に気がついた。そのままにしておくと転倒の危険が生じる。その場に屈んで結び直そうと思ったのだが、なぜか紐の結び方が思い出せない。ど忘れと言えばそうかもしれないが、何度試みても思い出せなかった。あの頃は唯々焦った。ついに自分の頭は壊れてしまったのだろうかと悲観した。この先仮に退院できたとしても、社会復帰ができるのだろうかという不安も重なり、日々精神状態は揺れ動いていた。
不安な状況が続く中で自分を励ますために、度々面会に来てくれた友人がいた。本ブログで画像処理を担当してくれているケロヨンFである。彼女にはどれだけ勇気づけられただろうか。妻が面会に来るのは当然としても、友人が来てくれる事は全くもってありがたい事である。彼女は日々の仕事をしながら、私の沈んだ気持ちを回復させようとしてくれたのだ。持つべきものは友人である。ケロヨンのおかげもあり、リハビリは着実に進行。8月に入ると、退院の話も聞かれるようになっていた。
8月中旬、ついに最終テストが行われた。三つの部門において問題ないと判断がなされた結果、8月16日の退院が決まったのだ。退院当日の朝は転院時と同様に早く目覚めた。身支度を済ませた後、サポートしていただいた療法士の皆様に感謝の気持ちを伝えた。これで済生会病院とは永久にお別れである。自宅に帰る際はケロヨンが車を準備してくれた。病院を後にして約1時間後、自宅に到着した。その日の夕食は2ヶ月ぶりに自宅でとる食事であった。
退院後の社会復帰は、朧げながら描いていた。年内は療養に徹する事。そして年明けに伊勢神宮参拝を企画していた。言うまでもなく厄除けを兼ねてである。リハビリ病院から退院して5ヶ月、2019年がスタートした。失った時間を取り戻すと意気込んでいた年であった。伊勢神宮参拝が数日後に迫っていたある日の事。思いもよらぬ事態に襲われた。夕食時であった。妻に話しかけた瞬間、鼻の左横辺りに違和感を感じた。顔の筋肉が攣っているような感覚である。しかもじわじわと酷くなっている感があった。数分後には顔から身体の左側に範囲が広がり自由が効かなくなった。妻に声をかけるのが精一杯の状況。身を捩らせている私の姿に驚いた妻は迷わず救急車を要請した。救急隊は脳出血発症時に入院した地元病院の主治医に連絡。受け入れ態勢の準備をいただいた。
何が何だか分からないまま地元の病院に到着。入院時にお世話になった看護師さんが驚いた表情で私を見ていた。検査の結果、再入院する事になってしまった。主治医の診断結果は症候性癲癇(しょうこうせいてんかん)であった。冷静を装ってはいたものの、足を踏み外して奈落の底へ突き落とされたような状況。「オレ、死ぬのか‥」次週に続く。
☆Because/THE BEATLES(2019 MIX)
https://www.youtube.com/watch?v=2XyuywVao7g
Post Views:
10
2021年8月7日
前回は入院から転院までを綴った。今回は転院以降を回想してみよう。自宅近くの総合病院を退院してタクシーで移動。西区の済生会病院に到着した。まずはカウンセリングと健康診断を受けた。カウンセリングについては、脳出血発症時の状況について詳しく尋ねられた。当時の記憶を辿り、包み隠さず全てを話した。生まれて初めて死の恐怖に直面して怖かった事。手術になるかもしれないと怯えていた事。医師はメモを取りながら私の話に耳を傾けていた。その後健康診断。血圧と尿検査、心電図検査を行なった。医師から指摘された事は、もう少し体重を下げましょうの一点だけであった。今のところ大きな問題はありません。血糖値は正常、糖尿もありません。まずは一安心。だが一方、気がかりな事もあった。今のところはの部分である。もしかしたらこの先、良くない事が起きるのではないか?と勘ぐってしまう。やはり脳出血という病名が相当に堪えている。
脳出血最大の要因は高血圧である。私は発症以前から、血圧を気にした事など一度もなかった。19歳で上京。東京で8年間生活したのだが、一度も医者にかからずだった。そんな事もあり、体力に過信していたのだ。自分は健康そのものだと。独身時代から肉が中心の食生活。塩分も取り放題の荒れたものであった。また独立した事で、深夜まで仕事漬けが当たり前の生活になっていた。更に仕事以外にも、様々な問題処理と判断を迫られてストレスも溜まる一方。その結果として、血圧に無関心になっていたのだろう。
脳出血という病気は本当に恐ろしい。運が悪いと一瞬で命を絶たれる事もあるし、重度の障害が残る可能性もある。一般には、出血部分の反対側に障害が生じると言われている。私は右に出血したため、左に障害が出る可能性があった。入院時に指が曲げられなかった事実もこれにあたる。転院の際、受け入れ先の医師から指摘された危険は転倒である。歩行においては、自分では一切問題ないと思っていたのだが、万一の事を考えて車椅子を使用する事に同意した。
済生会病院は患者一人に対して三部門の療法士がチームとなりリハビリをサポートしている。理学療法、作業療法、言語聴覚の三部門である。それぞれの分野で、最も効果的だと思われるリハビリプログラムを考案するらしい。そして転院初日からリハビリが始まった。リハビリは午前と午後の二部構成。理学療法においては、歩行訓練と柔軟体操が主なメニューである。平衡感覚の向上を目指す運動、体重を下げるエアロバイクなどである。それらは屋内外を問わず多岐に渡った。作業療法においては頭脳テストの印象が強い。朝から夕方までテスト責めのような感じだ。同じ問題が出されてこちらから指摘した事も多々あった。「その問題、数日前に回答しましたよ」療法士は一度に数名を担当しているため、混乱しているのだろう。
作業療法という言葉を聞いて違和感を感じる人も多いはず。今ひとつ内容が分からないからだ。簡単に言えば、生活に関連する全ての事を対象にしたものである。食事や着替えから入浴まで全てが対象であると伺った。済生会病院には、脳出血や脳梗塞を患った人が大勢リハビリに訪れていた。そして殆どの方が障害を抱えていた。歩行が困難な人、二桁の足し算や引き算が出来ない人、自分の住所や名前を言えない人。上手に食事を取れない人など千差万別であった。自分は顕著な障害が出ていない事もあり、唯々幸運だと感じた。
そして最後は言語聴覚療法である。これについては、見る、聞く、話す能力のリハビリである。この科目に限り女性療法士が担当した。この人については、医師特有の少し意地悪な発言が多い人だなと感じていた。ある日の事。12桁の数字を暗記するテストがあった。私は記憶力には自信があるので、全てクリアした。その際にはこんな事をいわれた。「12桁の数字を暗記してスラスラ言えたのは中川さんくらいですね」お世辞なのかもしれないが、私には嫌味だと感じられたのでこう返した。「んな事ないでしょ。誰でもできますよ。因みに私は16桁のカード番号も二種類暗記していますよ」「‥」口の悪い療法士を寡黙にさせるのはこれで十分だった。
済生会病院の良いところは多々あるが、最も優れていた事は食事のクオリティが高い事である。ご飯はふっくらと炊いてあり、料理の味付けが極めて良かった。転院前の地元病院に比べたら雲泥の差である。朝食のお味噌汁はしっかりと出汁が効いていた。入院患者にとって食事は最大の楽しみである。食事が美味しいと感じるだけでもリハビリの意欲が増すのだ。またメニューにおいても栄養士さんの工夫が感じられた。週に一度だけだが、昼食のメニューを選択できた。患者の気持ちを考えて仕事をしてくださるプロの印象が残った。私自身は、とろろそばや冷やし中華など、食欲が減退しがちな真夏に頂きたいメニューをリクエストした。
リハビリは順調に進み、いつしか8月に突入していた。ある日の事。作業療法中に驚くべき体験をした。療法士からプリントが配布され、問題を見て回答を記述してくださいと言われた。こんなの簡単だと思いながらスラスラと回答した。その後、人の体を描いてください。服装は何でも構わないですよと。私は日常の服装をイメージして描いた。20分ほど経過した後に答え合わせを行った。合格だろうと思っていたのだが、作業療法士から間違いを指摘されたのだ。「中川さん、ここを見てください。左の腕が無いですよ」「???」呆然として言葉が見つからなかった。グラフィックデザイナーの自分が左腕を描き忘れていたのだ。
この意味がお分かりいただけるだろうか。描き忘れのミスではないのだ。脳出血が原因で軽い障害が起きていたのだ。右に出血したから左に障害が出る。この法則どおりに左腕の意識が欠落したらしい。言われてみれば転院当時にも思い当たる事があった。初めてのリハビリの際、スニーカーのシューレースが緩んでいる事に気がついた。そのままにしておくと転倒の危険が生じる。その場に屈んで結び直そうと思ったのだが、なぜか紐の結び方が思い出せない。ど忘れと言えばそうかもしれないが、何度試みても思い出せなかった。あの頃は唯々焦った。ついに自分の頭は壊れてしまったのだろうかと悲観した。この先仮に退院できたとしても、社会復帰ができるのだろうかという不安も重なり、日々精神状態は揺れ動いていた。
不安な状況が続く中で自分を励ますために、度々面会に来てくれた友人がいた。本ブログで画像処理を担当してくれているケロヨンFである。彼女にはどれだけ勇気づけられただろうか。妻が面会に来るのは当然としても、友人が来てくれる事は全くもってありがたい事である。彼女は日々の仕事をしながら、私の沈んだ気持ちを回復させようとしてくれたのだ。持つべきものは友人である。ケロヨンのおかげもあり、リハビリは着実に進行。8月に入ると、退院の話も聞かれるようになっていた。
8月中旬、ついに最終テストが行われた。三つの部門において問題ないと判断がなされた結果、8月16日の退院が決まったのだ。退院当日の朝は転院時と同様に早く目覚めた。身支度を済ませた後、サポートしていただいた療法士の皆様に感謝の気持ちを伝えた。これで済生会病院とは永久にお別れである。自宅に帰る際はケロヨンが車を準備してくれた。病院を後にして約1時間後、自宅に到着した。その日の夕食は2ヶ月ぶりに自宅でとる食事であった。
退院後の社会復帰は、朧げながら描いていた。年内は療養に徹する事。そして年明けに伊勢神宮参拝を企画していた。言うまでもなく厄除けを兼ねてである。リハビリ病院から退院して5ヶ月、2019年がスタートした。失った時間を取り戻すと意気込んでいた年であった。伊勢神宮参拝が数日後に迫っていたある日の事。思いもよらぬ事態に襲われた。夕食時であった。妻に話しかけた瞬間、鼻の左横辺りに違和感を感じた。顔の筋肉が攣っているような感覚である。しかもじわじわと酷くなっている感があった。数分後には顔から身体の左側に範囲が広がり自由が効かなくなった。妻に声をかけるのが精一杯の状況。身を捩らせている私の姿に驚いた妻は迷わず救急車を要請した。救急隊は脳出血発症時に入院した地元病院の主治医に連絡。受け入れ態勢の準備をいただいた。
何が何だか分からないまま地元の病院に到着。入院時にお世話になった看護師さんが驚いた表情で私を見ていた。検査の結果、再入院する事になってしまった。主治医の診断結果は症候性癲癇(しょうこうせいてんかん)であった。冷静を装ってはいたものの、足を踏み外して奈落の底へ突き落とされたような状況。「オレ、死ぬのか‥」次週に続く。
☆Because/THE BEATLES(2019 MIX)
https://www.youtube.com/watch?v=2XyuywVao7g