大病の記録❸
「 再 生 」
 〜命ある限り〜  

2021年8月14日

前回はリハビリの終了に基づき退院。てんかんの発症までを綴った。今回の記事はてんかん発症以降の日々を回想してみたい。救急車で地元病院に搬送されたのち、点滴を受けて痙攣は収束した。だが心のダメージは予想以上に大きかった。尋常ではない左半身の痙攣。体の左半分がつったような感覚で、全く身動きがとれない状態であった。あの時は本当に怖かった。自分はこのまま死ぬのだろうかと思った。運良く大事には至らなかったのだが、こんな事が度々起きては安心していられない。自身で描いていた職務復帰の道筋は脆くも崩れてしまった。元よりこれから先、日々の生活が送れるのだろうかと不安は増すばかり。てんかんなど、子供が患う病気だろうの認識しかなかったのが本音。そこで主治医に尋ねてみた。「脳出血した人の全てが発症するのですか?」「全員が発症する訳ではないですね。むしろ発症する人の方が圧倒的に少ないです」要するに私は少数派のようである。では今後、発症を防ぐためにはどうしたらいいのですか?主治医から明確な回答は得られなかった。

緊急入院から三日が経過した朝の事。主治医が病室を訪れて退院を許可してくださった。「もう大丈夫でしょう」この言葉を信じたい反面、もし再び発症したならば、精神的に立ち直れないかもと考えていた。当時はそれぐらい動揺していたのだ。体が痙攣を起こして自由が効かなくなるなど初めての体験である。だがいつまでも動揺していられない事情もあった。当面の生活費の捻出である。入院前は仕事に恵まれた事もあり、僅かながら蓄えもあった。だがその後、リハビリ専門病院に転院。ここで結構な費用がかかり、蓄えも底をついてしまった。働きたいのは山々だが、てんかんと背中合わせの日々では落ち着いて仕事もできないだろう。悶々した日々を過ごした後、一つの考えが浮かんだ。

脳出血で地元病院に入院した際、相談員の女性からこんな事を聞いていた。傷病(しょうびょう)手当を申請してみませんか」「それ、なんですか?」「社会保険に加入されている方ならどなたでも申請できる救済保険ですよ」法人企業は社会保険と厚生年金をセットで強制加入するのが決まりである。その時は一通り説明を聞いたものの、申請する気にはなれなかった。おそらく自分は対象外だろうと決めつけていたのだ。また仮に対象であっても、手続きが複雑で面倒な事は目に見えている。この期に及んで面倒な事は嫌だと申請しなかったのだが今回は違った。妻が手を挙げたのだ。「ダメ元で私が申請してみる」

妻は私の性格とは真逆のタイプ。私は石橋を叩いて壊してしまうタイプだが、妻はまずやってみようと考えるタイプ。ここは妻の心意気に任せてみようとなった。毎晩のようにネット検索を繰り返しながら、申請書類を作成していた妻の姿は記憶に新しい。それから数日後、私が最終的にチェックして申請を済ませた。それから数週間後の事。一枚の葉書が届いた。親展扱いと書かれたシール方式である。まさかとは思いつつシールを捲ると傷病手当の申請が認可されましたと書かれていたのだ。これはひとえに妻の努力の賜物である。これで当面の間は治療に専念できるだろう。ひとまず家計崩壊の危機は回避した。

季節は移ろい変わり、春から初夏になっていた。当時はコロナの話など一切聞かれなかった行楽シーズンの真っ盛り。妻がゴールデンウィークを利用してバスツアーに行きたいと言ってきた。「いいね、行こうか」妻は地元駅前から出発する日帰りバスツアーを予約してくれた。目的地は南信州である。だが当時の私には一抹の不安があった。もし旅先でてんかんの発作が起きたら周りの人に迷惑をかけてしまう。参加した皆様の楽しい時間をぶち壊してしまうのはいたたまれない。そこで主治医に相談したところ意外な答えが返ってきた。「行ってきなさい。大勢の人がいるから逆に安心でしょう」「先生、その理論おかしくないですか?」と思いながらもバスツアーに参加した。この時は何事もなく無事に帰ってこられた。

普通であればこれで一件落着となるであろう。ところがそう簡単に決着しないのがこの病気の残酷なところ。ここで整理してみよう。西区のリハビリ病院を2018年8月16日に退院。2019年1月にてんかんを発症して地元病院に再入院。一旦は収束したものの、4月、5月と発作に見舞われ、その都度救急車で運ばれた。この時の自分は精神的に追い詰められた状態。夜眠る事さえ怖かった。突然襲ってくる左半身の痙攣。呼吸もしづらいほどの強いものだった。もし今後もこのような状態が続くのであれば、自ら命を絶った方がいいかもしれないと本気で考えていた。長い人生の中で、自殺を考えたのはこの時一度きり。何が起きても乗り越えてきた強い自分だが、この時ばかりは後ろ向きになっていた。人は怖気付くと、坂を転げ落ちるように弱気になっていく。いつしか職務復帰の意欲は消え失せ、外出する事も躊躇うようになっていた。だがこのままではいけない。自ら病気を治す事はできないが、自分を哀れむのはダメだと言い聞かせた。

2019年3月、運転免許証更新の際、てんかんの発症を正直に申告した。視力検査など全てパスした後に別室に呼ばれて免許証の取り消し予告をされた。試験場の方々は私を慰めてくれた。「3年間ありますから大丈夫、きっと再取得できますよ」予想していた事ではあったがいざ現実となると辛かった。人間失格のような気分になっていた。気分を変えようと深夜までテレビを見ていると自然と泣けてきた。今思えばあの頃がどん底状態。妻や友人に当たり散らしていた日々だった。あの頃から旧交を温めていたのが、昨年亡くなった大島奈菜子さんである。彼女はガンを抱えながら強い意志で生きている事をメールで私に伝えてくれた。抗がん剤に耐えながら日々仕事を続けていた彼女の心中察するに余りある。彼女から頂いたメールは、自身の体調には一切触れず、私を気遣う表現が多々見られた。残念ながら彼女は亡くなってしまったが、彼女の強い精神力と優しい心遣いを私は一生忘れない。

2019年5月中旬の定期検診時。主治医から言われた。「今日から就寝前の薬を一錠追加します。これで様子を見ましょう」元より自分ではどうすることもできない。それを信じるしか手立てがないのだ。ところがである。薬を追加いただいた日から発作はピタリと止まったのだ。そして先日の記事で記述したように、てんかんの発症から2年間再発がないと認められた事で運転免許証が返還された。発作に怯えていた苦悩の日々はようやく終わったのだ。2016年6月14日の発症から3年を経て再び命を与えられた気分である。と同時に今後の人生は、新しい役目を担いなさいと言われている気がする。闘病中の私を支えてくれた妻や友人に感謝を忘れずにもう一度生き抜く。命ある限り。完

☆And your Bird Can Sing/THE BEATLES(2009Remastered)
https://www.youtube.com/watch?v=Uq0aeEYLkIE

☆デザイン学校に通っていた20歳の頃

In My Life,weekend