間違いだらけの業界伝説❶ 2022年6月12日
今から40年前の1982年。私は都内のデザイン会社に就職して社会人としての一歩を踏み出した。当時の日本は右肩上がりの好景気。現在と真逆と言って良い状況であった。仕事の依頼はひっきりなし。食事はコンビニ弁当とカップ麺が定番。睡眠不足に耐えながらの残業は、タバコと缶コーヒーが必須の日々だった。そんな時代に鍛えられた自分だが、一昨年の病気を機に生活スタイルを大きく変えた。いや正確に言えば、変えざるを得なかった。かつてはデジタル最前線の環境下で働いていたのだが、もはやそれも過去の日々になりつつある。何事も変わっていくのが世の常というもの。そこで今回から、私が生業で知り得た知識と思い出を、少しづつ綴ってみようと考えている。
私が初めて入社したデザイン会社は、流通業界を中心に受注している企業であった。デザイン会社といえば聞こえは良いが、正確には広告制作会社という方が正しいかもしれない。会社の所在地は東京都新宿区三栄町(さんえいちょう)多くの出版社や印刷会社が集まっていた地域である。勤務先は住居可能なマンションの一室で、一階にはコーヒーショップが入っていた。勤務先の従業員は10数名ほど。社内はデザイン部と写真部で構成されていた。その会社に入社して私が最も驚いた事は、小規模でありながら客先が無数にあった事だ。小さな広告代理店から結婚式場、社名を聞けば誰もが知っている食品メーカーなど多岐に渡っていた。中でも著明な企業は、スーパーマーケットのダイエーである。当時のダイエーは飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、日本経済の牽引車的存在であった。
夏草や 強者どもが夢のあと 今となっては見る影もないダイエーだが、当時の躍進ぶりは目を見張るものがあった。その理由は、社長である中内功(なかうち いさお)さんの手腕に尽きる。価格破壊をスローガンに、安売りに徹した企業姿勢。良い品を1円でも安くというキャッチフレーズで事業展開していた。主婦の心を捉えた販促が功を奏して、売上は隆盛を極めた。店舗数は増加の一途を辿り、次々に大型店を出店していた。当時受注していた販促物は、B2サイズの大判チラシからミニサイズのものまで数種類が存在していた。掲載商品点数500以上。机上で広げると、ポスターかっていうぐらいの大きなサイズだった。会社は週4〜5本ほど受注していたようだ。
中内さんの功績は売上だけではなかった。新しい価値観の創造にも意欲的な経営者の印象が強い。具体的にはプライベートブランドの創造と数々の自社ブランドを立ち上げた。キャプテンクック、セービング、BUBUなどのプライベートブランドを作り上げてナショナルブランドに対抗させた意義は極めて大きい。こんな逸話もある。当時の日本で発売されていたカラーテレビは13型で10万円ほどだった。これに対してダイエーは、プライベートブランドで激安商品を開発。破格の59,800円で発売したのだ。この価格には誰もが驚き、業界に波紋が広がった。当時はメーカーが小売価格を統制していた時代。その仕組みが崩壊の恐れがあると察したナショナル(現パナソニック)が、ダイエーに商品の供給を停止。ダイエーが松下電器を訴える事態になった。それでも中内さんは怯まずに己の考えを崩すことはなかったという。ダイエーは異端児であると同時に怪物でもあったのだ。だがダイエーが頂点を極めたのは銀座にデパートを作った1980年代の後期まで。ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)の球団経営を始めた頃から凋落が始まった。
今だから敢えて言うが、当時は誰もが失敗するだろうと予想していたのだ。たとえ流通業で頂点を極めた企業でも、プロ野球界は同じ分野ではない。ましてや球団経営をした事がないダイエーが成功するとは思えない。大方の予想は冷ややかだった。その後1990年代になると、イトーヨーカドーやジャスコが頭角を現す。これにより、ダイエーの地位が揺らぎ始めた。ダイエーにはたくさんの商品がある。でも欲しい物は何もないと揶揄されるようになっていた。この後の展開は皆様がご存知の通りである。中内さんは業績悪化の責任を追求されて代表取締役を退任。後に株式などの個人資産も売却を余儀なくされた。そして2015年、ダイエーはイオングループの一員として子会社された。
こうして回想すると、ダイエーが残した物はバブル期の負の遺産そのものではないかと感じる方がいるかもしれない。だがダイエーが生み出した功績は言葉では表現できないほど大きいものだ。今では当たり前に存在しているコンビニやドラッグストア、家電量販店などが誕生する土壌を作ったのもダイエーといっても過言ではないからだ。自らが物の価値観を世に問う企業となり、消費者のライフスタイルを多様化させたのだ。業界の頂点を極めたダイエーが見誤った事はただ一つだけ。バブルの終焉と共に変化した消費者マインドを見極められなかった事だろう。1990年以降の消費ニーズは、安価よりもクオリティ重視にシフトが始まっていたのだ。消費者の価値観を変化させて流通業界の頂点を極めたダイエー。そして私とダイエーとの関わりは、その後も続いていく事になる。
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2022年6月12日
今から40年前の1982年。私は都内のデザイン会社に就職して社会人としての一歩を踏み出した。当時の日本は右肩上がりの好景気。現在と真逆と言って良い状況であった。仕事の依頼はひっきりなし。食事はコンビニ弁当とカップ麺が定番。睡眠不足に耐えながらの残業は、タバコと缶コーヒーが必須の日々だった。そんな時代に鍛えられた自分だが、一昨年の病気を機に生活スタイルを大きく変えた。いや正確に言えば、変えざるを得なかった。かつてはデジタル最前線の環境下で働いていたのだが、もはやそれも過去の日々になりつつある。何事も変わっていくのが世の常というもの。そこで今回から、私が生業で知り得た知識と思い出を、少しづつ綴ってみようと考えている。
私が初めて入社したデザイン会社は、流通業界を中心に受注している企業であった。デザイン会社といえば聞こえは良いが、正確には広告制作会社という方が正しいかもしれない。会社の所在地は東京都新宿区三栄町(さんえいちょう)多くの出版社や印刷会社が集まっていた地域である。勤務先は住居可能なマンションの一室で、一階にはコーヒーショップが入っていた。勤務先の従業員は10数名ほど。社内はデザイン部と写真部で構成されていた。その会社に入社して私が最も驚いた事は、小規模でありながら客先が無数にあった事だ。小さな広告代理店から結婚式場、社名を聞けば誰もが知っている食品メーカーなど多岐に渡っていた。中でも著明な企業は、スーパーマーケットのダイエーである。当時のダイエーは飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、日本経済の牽引車的存在であった。
夏草や 強者どもが夢のあと 今となっては見る影もないダイエーだが、当時の躍進ぶりは目を見張るものがあった。その理由は、社長である中内功(なかうち いさお)さんの手腕に尽きる。価格破壊をスローガンに、安売りに徹した企業姿勢。良い品を1円でも安くというキャッチフレーズで事業展開していた。主婦の心を捉えた販促が功を奏して、売上は隆盛を極めた。店舗数は増加の一途を辿り、次々に大型店を出店していた。当時受注していた販促物は、B2サイズの大判チラシからミニサイズのものまで数種類が存在していた。掲載商品点数500以上。机上で広げると、ポスターかっていうぐらいの大きなサイズだった。会社は週4〜5本ほど受注していたようだ。
中内さんの功績は売上だけではなかった。新しい価値観の創造にも意欲的な経営者の印象が強い。具体的にはプライベートブランドの創造と数々の自社ブランドを立ち上げた。キャプテンクック、セービング、BUBUなどのプライベートブランドを作り上げてナショナルブランドに対抗させた意義は極めて大きい。こんな逸話もある。当時の日本で発売されていたカラーテレビは13型で10万円ほどだった。これに対してダイエーは、プライベートブランドで激安商品を開発。破格の59,800円で発売したのだ。この価格には誰もが驚き、業界に波紋が広がった。当時はメーカーが小売価格を統制していた時代。その仕組みが崩壊の恐れがあると察したナショナル(現パナソニック)が、ダイエーに商品の供給を停止。ダイエーが松下電器を訴える事態になった。それでも中内さんは怯まずに己の考えを崩すことはなかったという。ダイエーは異端児であると同時に怪物でもあったのだ。だがダイエーが頂点を極めたのは銀座にデパートを作った1980年代の後期まで。ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)の球団経営を始めた頃から凋落が始まった。
今だから敢えて言うが、当時は誰もが失敗するだろうと予想していたのだ。たとえ流通業で頂点を極めた企業でも、プロ野球界は同じ分野ではない。ましてや球団経営をした事がないダイエーが成功するとは思えない。大方の予想は冷ややかだった。その後1990年代になると、イトーヨーカドーやジャスコが頭角を現す。これにより、ダイエーの地位が揺らぎ始めた。ダイエーにはたくさんの商品がある。でも欲しい物は何もないと揶揄されるようになっていた。この後の展開は皆様がご存知の通りである。中内さんは業績悪化の責任を追求されて代表取締役を退任。後に株式などの個人資産も売却を余儀なくされた。そして2015年、ダイエーはイオングループの一員として子会社された。
こうして回想すると、ダイエーが残した物はバブル期の負の遺産そのものではないかと感じる方がいるかもしれない。だがダイエーが生み出した功績は言葉では表現できないほど大きいものだ。今では当たり前に存在しているコンビニやドラッグストア、家電量販店などが誕生する土壌を作ったのもダイエーといっても過言ではないからだ。自らが物の価値観を世に問う企業となり、消費者のライフスタイルを多様化させたのだ。業界の頂点を極めたダイエーが見誤った事はただ一つだけ。バブルの終焉と共に変化した消費者マインドを見極められなかった事だろう。1990年以降の消費ニーズは、安価よりもクオリティ重視にシフトが始まっていたのだ。消費者の価値観を変化させて流通業界の頂点を極めたダイエー。そして私とダイエーとの関わりは、その後も続いていく事になる。