前略、お父さん 

2022年6月25日

☆54歳の父と60歳の自分が共演?(画像は合成、共に年齢は撮影当時)

父が亡くなり今年で15年。時の経つのは早いものだとつくづく思う。そして今日は父の日である。遥か彼方の記憶を紐解き父の思い出を綴らせてほしい。私の父は正義感が強く頑固な性格だったが、暴力を振るったり、他人を罵ったりする人ではなかった。たとえ腹が立っていても、相手を諭すように振る舞う優しい人だった。父の思い出は数々あるが、最も印象深い思い出は高校時代。学校から帰り、テレビを見ていた時だった。父はチャンネルを変えてもいいかと私に尋ねてきた。私が父にダメだよと伝えた途端「ここは俺の家だ!嫌なら出て行け!」と怒り出した。その時はなぜ怒るのかが分からなかった。あくまでも推測だが、商売で嫌な事があったのかもしれない。だが父の性格を継いだような自分も喧嘩っ早い性格だ。いきなり何だよ!と応戦して、取っ組み合いになった。居合わせた母親は、二人ともやめなさい!というだけで精一杯の状況。だが父も私も決して手を挙げる事はなかった。二人とも理性が働いていたのだろう。

晩年の父は穏やかで人生を達観しているように感じられた。会社運営について父と話をしていた時にこんな事を呟いた。「俺はもうすぐ70歳だ。70歳を超えたら、余生は神様からのお与えだと思っている」私はどう返してよいものかと考えて、まだそんな事は考えなくてもいいのではと伝えた。その頃の父は、21年間生き続けた猫のノエルと散歩を楽しむのが日課になっていた。ある日の夕食後、母の発した一言に父が反応。いきなり母に噛み付いた「俺はバカだから、そんな小さな事はどうでもいい!ここは俺の家だ。文句があるなら出て行け!」(またそのセリフか)「これに対して母が言い返したのだ「あんたが出て行け!」母は大阪生まれで気が強いのだ。私は笑いをこらえていた。強くて優しい父だったが、母の挑発には決して乗らなかった。我慢強い父のおかげで、うちの家族は常に笑いが満ち溢れていた。その後父は病に倒れて72歳で亡くなった。父が亡くなった数日後の夜。母は父の遺影の前で静かに泣いていた。父の背中を見て育った自分が、母の後ろ姿を見て父の亡くなった事を実感した一日だった。

父親は一家の大黒柱と言われる。父が亡くなって以来、うちの家族関係はギクシャクしている。母はいつまでも母親気取りで、些細な事に執着する性格が直らない。私や妻に頼み事をしておきながら、私の意見や考えには耳を傾けようとしない。そのアンバランスな考え方に辟易して、私は母と距離を置くようになった。原因は他にもある。私が四年前に患った大病は、過度のストレスが原因だと言われている。そして主治医からは、もう一度やれば、次はアウトですと言われている。自分の体は自分で守りなさいという事だろう。ただ私が心配しているのは、母の余生なのだ。うちの家族は全員が高齢化している。一人一人が貴重な時間なのだが、話せばいつも衝突してしまう。父が生存していた頃の生活に戻りたい母親。過去にお別れして生きようと決めた自分。お互いの主張には大きな隔たりがあり、溝を埋めるのは困難だと諦めている。でもこれが現実なのだ。お父さん、申し訳ありません。家族関係は最悪の状態ですが、これも家族が元気な証拠だと笑って見守っていてください。それから自分はまだ、そちらには行きません。

family story,In My Life