過ちて改めざる。これを過ちという。

2022年11月12日

年を重ねるごとにテレビがつまらないと感じる。そんな時はNHKの国会中継を見ることが多い。先日の国会中継は見応えがあった。安倍元総理の死を悼み、立憲民主党の野田元総理(以下野田氏と記述)の追悼演説を中継していた。生前の安倍元総理と野田氏は、党首討論で火花を散らした間柄。当時の衆議院選挙は民主党が惨敗。政権を明け渡すことになったのは記憶に新しい。あれから長い年月が流れた。勝者の安倍元総理は銃撃されて亡くなった。敗者の野田氏は、まさかご自分が安倍元総理の追悼演説をするとは思ってもいなかっただろう。今回は言葉と過ちについて綴りたい。

私は会社設立後、デザイン制作に留まらず、企画書制作なども請け負ってきた。デザインは主に視覚に訴えるものだが、企画は心に訴えるものと認識している。心に訴える企画立案には、優れたアイディアと説得力ある構成が不可欠である。今回の追悼演説を見て、最も印象に残ったことがある。それは企画構成が巧みなことに尽きる。当時から賛否両論、安倍元総理の政策には一切触れず、人としての生き様を讃えた構成であったこと。更に意外な事実も披露された。当時の選挙戦で自らの失言を吐露されたことである。それは10年前のこと。当時の安倍元総理は、体調不良を訴えていた。野田氏はそこを突いて安倍元総理をなじっていた。これについては野田氏自身も、まずかったと感じていたのだろう。その後、謝罪機会を失ったまま時は流れた。ところが一転、野田氏は追悼演説の中で安倍元総理に謝罪した。過去の事とはいえ、安倍元総理に謝罪した野田氏には誠実を感じる。政治家である以前に、人として最も大切なことではないだろうか。

生前の父がよく使っていた言葉がある。「心がない」日常生活で不快なことに遭遇して、相手(主に企業)から謝罪を受ける際、上部だけの言葉を言われるのは不愉快だ。父はそう言いたかったのだろう。人は誰しも過ちをする。だがそれを知りつつも、見過ごそうとする姿勢こそが過ちなのだ。その場しのぎで対応すると、長く禍根を残すこともある。過ちを素直に認めて謝罪する。これが大前提。自分を守るための言い訳は見苦しい。私はブログを綴るため、貫いていることがある。それは言葉を慎重に選ぶことだ。そして何度も読み返す。場合によっては作り直すこともある。自分のブログだから、何を記述しても良いだろうとは思わない。一人一人の顔形が異なるように、読む側、受ける側にも様々な事情がある。要は自分と同じ考えだと決めつけないこと。言葉は人に勇気を与える力になるが、心を傷つける武器にもなるのだ。

野田氏の演説は追悼演説という位置付けであった。故人に対してお悔やみを述べるのは弔辞。故人を送る側(議員全員)に向けたものが追悼演説である。演説の最後のくだり、議員は暴力に臆さず怯むことなく、街頭に立つ勇気を持ち続けようと訴えた。対峙する部分は触れず、安倍元総理の生き様を讃えた演説は胸に迫るものがあった。修羅場を経験された野田氏ならではの心のある演説。議場は惜しみない拍手で包まれた。盟友の心が安倍元総理に届きますように。

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