さよならアムトレック

2023年4月6日

会社を解散した。起業して30年。大した結果も出せず有終の美とは言い難いが、いつまでもしがみつかないところが自分らしいかもしれない。他界した父には仏前に報告した。お父さん、会社を閉じたよ。今まで心配をかけて申し訳ない。今回は自ら設立した会社、そして支援してくれた父と仲間への感謝を綴らせていただく。

1993年6月7日。凡そ企業として相応しくない社名の会社が誕生した。それが有限会社アムトレックである。アムトレックは私と父の名前のイニシャルのAとMに加えて、ゆっくり進む旅を意味するトレック(TREK)を組み合わせた造語である。父の商売を継承せず、グラフィックデザイナーを目指した自分だが、近い将来父と一緒に事業ができればいいなという想いを込めて名付けた社名である。既にお気づきの方もいるだろう。アムトレックはスタートレックからヒントを得た社名である。スタートレックは宇宙を開拓するために建造された「U.S.S.エンタープライズ」と名付けられた戦艦が5年間の調査飛行を行うSFテレビドラマ。未知の宇宙では想像を絶する様々な困難が待ち受ける。これに対してクルーが知恵を集結させて立ち向かうストーリー。私の人生に影響を与えた唯一のテレビドラマである。スタートレックは1980年に映画化されて世界中にファンが存在している。偶然ではあるが、私の人生の節目に新作が公開されたこともあり、人生を振り返るアルバムのような存在になっている。

話は35年前に遡る。東京生活にピリオドを打ち、名古屋へ戻った1988年の冬。父と一緒に深夜までテレビを見ていた時のこと。地元ローカル局はスタートレックが放送されていた。「章、この番組は面白いな」父はアメリカの海軍に造詣が深く、メカニズムの魅力を語り始めたら止まらない性分だ。父ならスタートレックは気にいるだろうと思っていた。放映当時、二人で深夜まで語り尽くした思い出は、今も私の心に残っている。その後私は5年間の雇われデザイナーを経て独立を果たした。会社設立後の最も感慨深い出来事は、父の事業に関連した業界が主催するイベントの企画立案と運営を依頼されたこと。今となっては死語である、マルチメディアを引っ提げてプレゼンテーションを実施。親の力を利用せず、自分自身で勝ち取ったものだ。私がグラフィックデザイナーを目指して上京できたのは、父の理解があってのこと。少しは恩返しができたかなという気分になった。

そしてこのイベントの運営に参加してくれたのが友人のケロヨンである。彼女は持ち前の度胸を活かして、様々な役割を果たしてくれた。バブル景気の余韻がある中、追い風を受けてアムトレックは出港した。設立後の五年間は次々に仕事が舞い込む状況。だがその後景気は徐々に後退。逆に苦難が襲って来る状況に転じた。経営者として仕事を失う怖さで眠れない時もあった。この気持ちを振り払うために、どんな仕事でも引き受けた。私自身が考えるデザインとは、絵を作るだけではなく、目標を達成するための考え方と位置付けていた。そのため将来は、事業企画の立案業務に参入したいと考えた。時代はアナログからデジタルに移行しはじめていた。一方のケロヨンは、膨大な手間と時間がかかるデザイン制作に、デジタルを取り入れたいと考えた。彼女は独学でデジタルを活用したデザイン制作を実践した。その努力は並大抵のものではない。夜遅くまで仕事をしてくれた彼女には、感謝の気持ちしかない。その甲斐あってアムトレックは、グラフィックデザイン制作からデジタルコンテンツ制作、そして企画の立案まで間口を広げることができた。新しい技術を習得して新しい仕事を勝ち取る。これがアムトレックのスタイルだ。

アムトレックの経営で最も面倒な部分は法人企業ということ。ではなぜ個人企業にしなかったのか。それは得意先となる企業から、法人の設立を要請されたからだ。「中川さん、仕事を依頼したいので、会社を設立してください。但し予算が取りづらいから、個人企業はダメですよ」ご承知のように法人企業は、厳格な財務管理が問われる。簡単に言えば、個人企業は社長の財布=会社の金庫という図式が多い。だが法人企業は、社長といえども勝手にお金を使うことは許されない。そのために、簿記を熟知している父を取締り役に据えて経理を依頼した。自分の事業を続けながら経理業務を担ってくれた父。相当のストレスがあったのだろう。アムトレック設立から14年。父は病に倒れて亡くなった。そして自分も5年前に脳出血で入院。退院して事業再開を決意した。だが、悪いことは続くものだ。直後に顧問税理士が病気で廃業。時は決算期だ。直ぐに税理士さんを探す必要がある。苦悩する自分の姿を見た妻は猛反対。「今は体を大切にしてよ。もう十分でしょう」妻の意見を受け入れて事業再開を断念した。

解散の理由は他にもある。自分自身も歳を重ねて時代に合わない感性になっていると感じたからだ。私が世に出た時代はアナログ全盛。携帯もネットもなかった。唯一のデジタル革命がFAXとファミコン(家庭用ゲーム機)である。それが今やどうだ。欲しい商品はネットで注文。ストレスなく自宅まで配達される。仕事は選り好みしなければ豊富にある時代。登録するだけで企業からスカウトがやってくるという。これが現実なら、夢のような話である。だが僻んだりはしない。どの時代にも良いところがあり、苦労せざるを得ない部分があるというもの。俺の時代は〜そんな愚痴を言っても意味がない。一言だけ許されるのであれば、若い世代に伝えたいことがある。世の中が便利になっていく反面、人間の器が小さくなっている感がある。難しい。無理だ。仕方がない。やる前から諦めている風潮が蔓延っている気がしてならない。待つのではなく、取りに行く姿勢も見せてほしい。自分はそんな時代に育てられたからだ。

コロナ禍を過ごした学生達が卒業していく。その姿は晴れやかで初々しい。彼らを見て思うことがある。若い世代は使える時間が豊富にある。これについては正直に羨ましい。マスク生活で楽しい思い出が少ないという意見もあるようだが、失った時間は取り戻せばいい。初老の自分にも卒業の思い出がある。40人のクラスメートと一緒に彫刻を制作した小学校の卒業記念作品。担任から私と親しい二人がリーダーに指名されて実現したものだ。一人一人が未来の生活を想像した絵を作成。それを元に素材に彫り立体作品に仕上げる。出来上がった作品を組み合わせて大型のモニュメントになるものだった。自分は原案を出してデザインの構成を考えた記憶がある。実を言えばこの時の担任が、自分の才能を最も見極めていたのではないかと思う。将来の自分の役割を示してくれたのが小学校の教師というのも興味深い。

会社経営を終えて分かったことをここに記す。人にはそれぞれ役目があり、それを果たすために生きている。たとえどんなに苦悩が多くても、生き続けることで役目を果たすことができる。そして仲間を大切にすることで、一生の友になれる。今までの人生における、半分の時を過ごしたアムトレックが消えるのは虚しい。だがやり残したことはない。無理に続けるのではなく、終わらせることも大切だと考える。

自分は何を残してきたのか。そう考えると少し悲観的にならざるを得ない。多くの経験を積みながら、業績を残すことができなかったこと。これは全てが自分の責任である。支えてくれた家族と仲間に感謝を込めて、今後の人生で恩返しをするつもりだ。そして30年の航行を支えてくれたアムトレックに感謝をしたい。長い間ありがとう。意義ある旅だったが、会社経営は荷が重かった。ケロヨンおつかれ!一杯やろう。

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