復讐の環を断ち切るために

2023年8月27日

原爆が投下されて78年の時が流れた。早朝から特集番組が放送されていたので視聴した。最も興味深く観たのはフジテレビの日曜報道プライムである。84歳の被爆者である田中稔子(たなか としこ)さんの被爆体験と平和への想いを伝えていた。今回は想像を絶する犠牲者を出した、原爆投下について綴りたい。

田中さんは6歳の時に友達と待ち合わせをしていた桜の木の下で被爆。被曝の瞬間は正しくピカドンのイメージという。右腕と頭、左首の後ろにやけどを負った。何が起きたのか全く分からず家に帰った。髪の毛は焼け焦げて顔も真っ黒。変わり果てた姿を見た母親でさえ田中さんとは気付かなかったという。その後やけどは水脹れになり、激痛が田中さんを襲う。高熱で意識を失った数日後。街は死体を焼く臭いで溢れていたという。本やドキュメンタリー番組で知り得た原爆の知識はあるが、戦争を知らない世代の自分は何も分かっていないに等しい。目を覆いたくなる悲惨な状況が思い浮かぶ。その後田中さんは12歳の時に白血球異常と診断される。猛烈な倦怠感を感じる日々を過ごした。そしてやけどをしていない友人が次々に亡くなっていく現実。死の恐怖に怯えていたという。

番組では田中さんの平和への想いと被爆体験を語り継ぐ活動を伝えていた。広島サミット前には、アメリカの大学で被爆体験を講義してほしいと依頼された。当時を思い出すのは辛い。だがこの機を逃してはいけないと決断。独学で会得した英語で学生たちに語りかけて核兵器の根絶を訴えた。一方では被爆国の日本とアメリカの考えの相違も伝えていた。田中さんはアメリカに暮らす人から「核兵器を使ったことでアメリカだけではなく、日本も救われたでしょう」と言われたという。要は原爆投下がなかったら、戦争は終結しなかったと。これについてはある学生から質問されたという。「日本は被爆した当事国です。なぜアメリカを許すのですか」田中さんは次のように返答した。「恨みを恨みで返す復讐の環を断ち切るためには、どこかで誰かが許すことが必要です」

とはいえ人には感情がある。頭では理解できても、行動に移すのは容易くないはずだ。だがこれこそが、戦争が生み出した悲劇なのだ。相手を恨む憎しみの連鎖。国籍の違いはあっても人間に違いはない。過去の悲劇を忘れずに未来を生きる。難しいことではあるが、それを成し遂げられないと戦争は終わらない。そして過去を知ることは、未来を生きる糧になるだろう。私にとっては二年後の大阪万博よりも、原爆資料館を訪れたい気持ちが勝る。日本で生まれ育った人間として、知らなければならない事実がある。そして戦争を知らない世代でもできることはあると田中さんは語っている。原爆で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。

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