自分と向き合う時間

2024年4月7日

ここ数年来、深夜に一人で見る映画がある。晩年の高倉健さんが主演した「あなたへ」この作品は高倉さん演じる主人公が、妻の死をきっかけに思い出を辿る旅に出るストーリー。現実と向き合いながら一人で生きていくために、心の在り方を描いた映画である。私がこの作品を観るのは、決断が必要な時。そして心が虚しい時。年の瀬が迫った先週末に再び見た。今回は映画について綴ろう。

「あなたへ」は2012年公開の邦画。公開直後に亡くなられた大滝秀治さんと、公開翌年に亡くなられた高倉健さんの遺作となった。主人公の倉島英二(高倉健)は指導技師として富山の刑務所に勤務している。そこで知り合った妻(田中裕子)と結婚するが、妻は病で先立つ。妻の願いは故郷の海へ散骨してほしいとのことだった。倉島は妻の願いを実現するために、ハンドメイドの内装を施したキャンピングカーで妻の故郷を訪れる。旅先で出会う人々の優しさに触れて、人それぞれに生き方があることを知る。そして妻の深い愛情に改めて気付かされることになる。私がこの作品を知るきっかけは、高倉さんが亡くなった直後に放送されたNHKの「プロフェッショナル」を視聴したこと。80歳を超えても現役の映画俳優を続けておられた高倉さん。自分を鍛えるために、撮影現場で椅子に座ることがなかったという。番組では多くの人々とふれあい、生きる喜びを持つことが大切だよと教えていただいた。

「あなたへ」は人それぞれに生き方があり、生きることの切なさが描かれている。作品における印象的な映像は降り注ぐ光と雨。そして穏やかな海と美しい山である。長崎の平戸で撮影された映像は、観る人の心を激しく揺さぶり、一方では優しく包み込む。妻に先立たれても日々を生き抜こうと決意する倉島の生きざまは本作品のテーマであり、観る人の胸を打つ。たとえ愛する人を失っても、時間は流れていくことを伝えている。作品の中では生前の妻を回想する場面もあり、倉島の揺れ動く心中が描写されている。観客の評価は概ね良いものだったが、一部に批判的な見解も散見された。展開が分かりにくい。心情が理解できないなどである。作品の評価は、見る側の感度により分かれるものだ。理詰めで考えるのではなく、心の目で観れば良い。映画とはそういうものだ。

東京で暮らした頃は映画館に出向いて大きなスクリーンで見た。当時はSFXがもてはやされていた。スターウォーズやスタートレックなど、合成を駆使した特撮映画の美しさに圧倒された。ところが十年後。名古屋へ戻る頃はビデオやDVDをレンタルして大型テレビで見る時代に変化した。そして昨今は携帯電話やタブレット端末などで見る時代になってきている。近年はコロナ禍の影響もあり、中小の映画館は軒並み閉館。もはや映画館へ出向くことすらなくなった。「あなたへ」で詐欺師を演じたビートたけしさんは、次のように語っている。「最近は誰も映画館へ行かなくなった。(携帯の)こんな小さな画面で映画を観るのが当たり前になった。そうなると映画の作り方も変えないといけない」

私にとって映画を観ることは、自分と向き合う時間と考える。そして最大の楽しみは、心に残る映像やセリフに出会うこと。若い頃に観た作品はアクションものやSFがほとんどだった。還暦を超えた現在は、人の一生や生き方を考える作品を好むように変化している。気に入った作品は、繰り返して何度も観るのが自分流。繰り返して観ることで、作品のテーマが心に浸透。登場人物の気持ちが理解できるようになっていく。「あなたへ」で印象に残る俳優は、ビートたけしさんと綾瀬はるかさん。この二人が実に味のある演技を見せてくれている。インテリの詐欺師を演じたビートたけしさんは、演者でありながら監督もこなす才能の塊のような方。そして高倉健さんを前にしながら堂々と演じた綾瀬はるかさんは、撮影現場を和やかにする努力を怠らない方といわれている。二人の存在がこの作品に奥行きを与えている。

2023年最後の記事を綴り終えた。振り返れば今年ほど老いを感じた年はなかった。2月の引っ越しで腰を痛めて、回復に時間を要した。そして集中力の衰えも著しい。同じ失敗をくり返す、情けない自分がいた。なぜ以前のようにできないのかと自分を問いつめた。それを解決する方法は一つだけある。老いを認めて向き合うことだ。若い頃の自分は完全無欠を目指していた。これはもう無理だと理解している。今後は自分自身を労り、大目に見ようと考える。生きることは切ないことだ。「あなたへ」は観客や視聴者に対して「現実の自分と向き合いながら、明日を生きてください」というメッセージと受け止めている。

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