所詮他人ごとだから

2024年4月7日

南神池

時代が変わっても今だに解決できない問題がある。それはいじめだ。先日もニュースで見たが、いじめが原因で16歳の少年が自殺したと報道されていた。これについていじめの事実認定を拒む学校に疑念を抱き、亡くなった少年の母親が再調査を申請したという。いじめ問題は以前から報道されているにも関わらず、いまだに根絶できない状態が続いている。同じことが何度も繰り返されるのはのはなぜだろう。結論からいえば、所詮他人ごとのように思っているからだ。我が子が同じ状況に置かれていたら、決して放置しないはず。自分では解決できないと決めつける教師が多いからだ。また学校の隠蔽体質と、無能な教育委員会にも責任がある。今回は自身の体験を踏まえていじめについて考察する。

今だから笑って話せるが、私も中学時代に仲間外れにされた経験がある。但し現代のような陰湿なものではない。私は名古屋生まれ。東海地方の方言で、仲間外れにすることをハバにするという。中学三年生の頃、仲間内からハバにされた時があった。私は少年時代から洞察力に優れていたので、ハバにされた原因は分かっていた。仲間内で目立つ存在だったからだ。他人の仕草や名前から連想するユニークなニックネームを付けたり、話し方を真似て笑いを掴む才能があった。また人気が出そうなボードゲームを持参して、昼休みに仲間内で楽しんでいた。これらの行為が妬みを買ったのだろう。近所に暮らす友人の態度が、ある日を境に急変したので気が付いた。仲が良い時は彼の家の前で待ち合わせて、一緒に通学していた。ところがその日は彼の家に寄ると「先に行ってよ」と返してきた。いつもジョークを飛ばしていた間柄なので、何が起きたのかは瞬時に理解できた。

子供は周りの考えや行動に影響されやすい。当時の私の周囲も同様だった。仲間外れを画策する生徒がいると、周囲も同様の行動をとる。またそれに加担を拒むと、その生徒も仲間外れの対象になる。これがいじめの連鎖である。ではなぜ私は対策を講じなかったのか。答えは簡単だ。何をやってもムダと分かっていたからだ。学校というものは、いじめの認定を拒むのが常。責任を追及されることを嫌う教師が多い。たとえ事実を伝えても、真剣に対処してもらえないのは目に見えている。では何が有効かと考えた。私の結論は気が滅入ると登校せずに、公園で一日を過ごしていた。こうすると自分が登校していないと騒ぎになり、自ずと担任の耳に入る。そして担任が周囲の生徒に事情徴収をする。また首謀者が告げ口されるかもという不安感に怯える。この仕組みを活用していた。

上の画像は旧実家付近に位置する熱田神宮の南神池である。池の中央には大きな岩があり、甲羅干しをする亀の姿が見られた。この場所で佇み、池の波紋を見ながら日中を過ごした記憶がある。だが思い詰めて自殺を図ったり、暴力に訴えようと思ったことは一度もない。僭越だが一種の人気税と考えていたのかもしれない。そして当時は分からなかったが、私を仲間外れにした彼にとっては、私の存在が目障りだったのかもしれない。なぜならば二人とも似たようなセンスの持ち主であったからだ。幸いにも両者は分別ある生徒だったので、大事に至ることはなかった。これをきっかけに私が理想とする人間関係は、距離を置くのが大前提という結論に至った。

当時15歳の私は現在63歳になっている。この年齢になると同窓会に参加をしたり、昔の仕事仲間に会いたいとは思わない。人は変わりゆくものだ。思い出は思い出のままにしておくのが良い。思い出話に花を咲かせるよりも、今を生きることに全力を尽くす。苦楽を共にした家族や友人を大切にしようと心がけている。下の画像は先日誕生日を迎えた友人のケロヨンへ贈ったピスタチオのケーキ。ケロヨン、誕生日おめでとう。ついにキミも60歳ですか。とてもその年齢には見えませんよ。

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