お母さん、私のこと分かる? NEW!2024年7月20日
8年ぶりに帰省した妻が帰ってきた。リュックから次々にお土産が出てくる。お前はドラえもんか!と言ったら、いつものようにおどけて笑った。
妻の実家は福島県田村市に位置している。直近では2016年に二人で訪れた。私が多忙で妻の父親の葬儀に参列できなかったからだ。妻の父親は事故で亡くなった。庭の木を伐採する際に樹木の一部が引っかかり、それを切ろうとしたところ、振り落とされて亡くなった。義母が救命ヘリを呼んだものの、既に心配停止状態。妻も死に目に会えなかった。そのショックのせいなのか、義母は認知症を発症して介護施設に入っている。体調は良好だが高齢のため、久しぶりに会ってきたらと送り出した。
帰省当日は生憎の大雨。新幹線は遅延が生じていた。東北新幹線に乗り換える東京駅では到着する列車に乗るのが精一杯だったという。事前購入した特急券は使用できず。全て無駄になってしまったが、何とか実家までたどり着いたらしい。頃合いを見て私から切り出した。「それでお母さんの容体はどうだった」妻は一瞬間を置いてしみじみと話し始めた。「お母さん、娘の笑美子だよ。私のこと覚えてる?」って尋ねたら、「笑美子か‥」と言った瞬間に泣き崩れたそうだ。8年ぶりの対面に感慨もひとしおだったのだろう。この話を聞いた私はもらい泣き。そうか。でも会えて良かったな。今夜は早めに休ませようと、ここで話を終わらせた。
高齢化と少子化が進む我が国において、認知症の患者数は深刻といわざるを得ない。報道によれば65歳以上の高齢者の三人に一人が認知症又はその予備軍といわれている。認知症は恐ろしい。大切な記憶が少しづつ失われて人格が変わる。やがては家族の顔を忘れてしまい、日常生活に支障をきたすようになる。かつて同僚女性の母親も認知症と聞いていた。彼女自身もがんと闘いながら、母親の介護に明け暮れたと聞いている。彼女が最も辛かったのは、母親が情緒不安定に陥った時のこと。介護を拒絶して暴言を吐き、物を投げつけて暴れたという。変わり果てた母の姿を目の当たりにして、やるせない気分になったという。彼女はこれも病気のせいだから仕方ないと理解を示した。そして涙ながらに介護を続けたという。残念ながら彼女の母は亡くなり、その後彼女自身も亡くなった。この歳まで生きてくると、切ない思い出のほうが多くなる。
翌日の朝。いつも通りの妻を見て安心した。友人や職場仲間に渡すお土産を披露してくれた。甘いもの好きの私にとって福島銘菓の知識はそこそこあるが、今回初めて食したお菓子があった。それはかんのやが販売しているゆべしのラングドシャ。ゆべしとは柚子を使用した和菓子であるが、全国では様々な定義があるそうだ。聞くところによれば東北地方はゆずを使用せず、くるみを使用した四角い餅菓子が基本だという。これをアレンジした洋菓子で新商品を作ろうとしたのが今回のラングシャ。見た目はどこにでもある焼き菓子だが、様々な工夫があるようだ。ポイントはクッキー生地に醤油が染み込ませてあること。一口食べるとサクッとした感覚の後に醤油の旨みが感じられる。そしてクッキーにはこし餡のチョコがサンドされている。クッキーのサクサク感を味わった直後にこし餡の旨みが口の中へじわ〜と広がる。これが実に美味しい。名古屋人なら誰もが知っている、しるこサンドの高級仕様とでもいうべきか。
妻と結婚した年は1990年。私が29歳、妻28歳の時だった。当時はバブルが弾けて失われた10年の幕開けとなった年である。私たち夫婦は共に上京して仕事で知り合った間柄。あの頃から34年。私たちもついに老人の部類に入っている。聞きたくない言葉だがこれが現実。大した揉め事もなく今も一緒にいられるのは、決して容易いことではなかった。些細なことが原因で口論になることもあったが、これ以上続けてはいけないという線引きができている。二人とも父親は他界しているが、母親は健在である。足腰が衰えない内に再来年もう一度福島へ行くかと尋ねたら「行きたい」と返答した。よし分かった。再来年必ず行こう。俺もお母さんの笑顔が見たいよ。
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2024年7月20日
8年ぶりに帰省した妻が帰ってきた。リュックから次々にお土産が出てくる。お前はドラえもんか!と言ったら、いつものようにおどけて笑った。
妻の実家は福島県田村市に位置している。直近では2016年に二人で訪れた。私が多忙で妻の父親の葬儀に参列できなかったからだ。妻の父親は事故で亡くなった。庭の木を伐採する際に樹木の一部が引っかかり、それを切ろうとしたところ、振り落とされて亡くなった。義母が救命ヘリを呼んだものの、既に心配停止状態。妻も死に目に会えなかった。そのショックのせいなのか、義母は認知症を発症して介護施設に入っている。体調は良好だが高齢のため、久しぶりに会ってきたらと送り出した。
帰省当日は生憎の大雨。新幹線は遅延が生じていた。東北新幹線に乗り換える東京駅では到着する列車に乗るのが精一杯だったという。事前購入した特急券は使用できず。全て無駄になってしまったが、何とか実家までたどり着いたらしい。頃合いを見て私から切り出した。「それでお母さんの容体はどうだった」妻は一瞬間を置いてしみじみと話し始めた。「お母さん、娘の笑美子だよ。私のこと覚えてる?」って尋ねたら、「笑美子か‥」と言った瞬間に泣き崩れたそうだ。8年ぶりの対面に感慨もひとしおだったのだろう。この話を聞いた私はもらい泣き。そうか。でも会えて良かったな。今夜は早めに休ませようと、ここで話を終わらせた。
高齢化と少子化が進む我が国において、認知症の患者数は深刻といわざるを得ない。報道によれば65歳以上の高齢者の三人に一人が認知症又はその予備軍といわれている。認知症は恐ろしい。大切な記憶が少しづつ失われて人格が変わる。やがては家族の顔を忘れてしまい、日常生活に支障をきたすようになる。かつて同僚女性の母親も認知症と聞いていた。彼女自身もがんと闘いながら、母親の介護に明け暮れたと聞いている。彼女が最も辛かったのは、母親が情緒不安定に陥った時のこと。介護を拒絶して暴言を吐き、物を投げつけて暴れたという。変わり果てた母の姿を目の当たりにして、やるせない気分になったという。彼女はこれも病気のせいだから仕方ないと理解を示した。そして涙ながらに介護を続けたという。残念ながら彼女の母は亡くなり、その後彼女自身も亡くなった。この歳まで生きてくると、切ない思い出のほうが多くなる。
翌日の朝。いつも通りの妻を見て安心した。友人や職場仲間に渡すお土産を披露してくれた。甘いもの好きの私にとって福島銘菓の知識はそこそこあるが、今回初めて食したお菓子があった。それはかんのやが販売しているゆべしのラングドシャ。ゆべしとは柚子を使用した和菓子であるが、全国では様々な定義があるそうだ。聞くところによれば東北地方はゆずを使用せず、くるみを使用した四角い餅菓子が基本だという。これをアレンジした洋菓子で新商品を作ろうとしたのが今回のラングシャ。見た目はどこにでもある焼き菓子だが、様々な工夫があるようだ。ポイントはクッキー生地に醤油が染み込ませてあること。一口食べるとサクッとした感覚の後に醤油の旨みが感じられる。そしてクッキーにはこし餡のチョコがサンドされている。クッキーのサクサク感を味わった直後にこし餡の旨みが口の中へじわ〜と広がる。これが実に美味しい。名古屋人なら誰もが知っている、しるこサンドの高級仕様とでもいうべきか。
妻と結婚した年は1990年。私が29歳、妻28歳の時だった。当時はバブルが弾けて失われた10年の幕開けとなった年である。私たち夫婦は共に上京して仕事で知り合った間柄。あの頃から34年。私たちもついに老人の部類に入っている。聞きたくない言葉だがこれが現実。大した揉め事もなく今も一緒にいられるのは、決して容易いことではなかった。些細なことが原因で口論になることもあったが、これ以上続けてはいけないという線引きができている。二人とも父親は他界しているが、母親は健在である。足腰が衰えない内に再来年もう一度福島へ行くかと尋ねたら「行きたい」と返答した。よし分かった。再来年必ず行こう。俺もお母さんの笑顔が見たいよ。