ありがとう、お父さん NEW!

大切な友人のお父さんが亡くなった。ブログをサポートしてくれているケロヨンFの父親である。過去に度々お会いしたが、昭和の頑固親父を彷彿させる威厳と優しさが同居する方だった。私もお世話になったので友人の承諾を得て、追悼記事を綴らせていただく。記事は友人の証言を元に作成したもので、画像は友人から提供され、その選択も委ねた。

Aさん(90)友人によれば、寡黙で気難しい父親。別な言い方をすれば、ちゃぶ台返しの頑固親父。短気で強面の印象が強かったという。昭和の典型的な父親といえよう。Aさんは4人兄妹の長男として生まれた。家は貧しかったそうだが、持ち前の度胸を活かして、長男の役割を立派に果たした。物資が乏しい戦時中は、川で釣った魚やうなぎを売り、生計を立てた苦労人。年子の妹の為に、住む土地と嫁入り道具一式揃えたという。頑固ながらも家族想いの人柄が偲ばれる。

仕事は18歳からアイシン精機に勤務されていた。アイシン精機といえばトヨタグループ企業。エンジンやトランスミッション等、自動車部品の製造と開発が主な業務である。Aさんの担当部署は鋳造。鋳造は金属加工において最も歴史ある加工技術を示す。 作りたい形の鋳型に溶けた金属を流し込み、冷やして固める工程を表す。これにより複雑な製品を効率よく量産できる仕組み。エンジンのシリンダーブロック、クランクシャフト、カムシャフトなどの製作に欠かせない作業である。Aさんの優れた技能が認められ、抜擢されたのだろう。また取得された技能資格が6件あるとのこと。生粋のエンジニアといっても過言ではない。1960年4月に奥様と結婚。夫妻は刈谷市内の本家で母親、小姑二人と同居生活を始めた。その一年後、夫妻は家を出る決意を固める。現在の土地を買い、新しい生活をはじめた。その後程なくして長女(友人)が生まれた。Aさんの子供は三名。長男と長女、そして次男である。友人の話によればAさんは、奥様を気遣うことが少ない性分だったという。また子供の教育も余り熱心ではなかったらしい。奥様を信頼して全て任せていたのだろう。男は本来それが当たり前。あれもこれもと手伝う現代の父親とは一線を画す。そんな武骨な父親でも、子供にとっては心に残る思い出がある。屋根上に小さな観測所を作ってくれて、大きな天体望遠鏡で満天の星空を見たこと。子供時代に親が体験させてくれたことは、永遠の記憶に残る宝物になっている。

Aさんの特技はモノづくり。手先が器用で創意工夫される方と聞いていた。私が最も驚いたのは新築以前に住んでいた家である。10年かけて、Aさん自ら拵えたという。例え器用でも、家を作るなど容易いことではない。車庫には多数の機械や工具が完備されていた。元気な頃は自分の畑で野菜作り。沢山のきゅうりや茄子を収穫したという。私も度々頂いた記憶があるが、友人の子供時代は机や椅子、小さな家具や鳥小屋なども作ってくれたという。娘想いのAさんの愛情が感じられるエピソードである。友人曰く家族が最も幸福を感じた時は30年前ごろ。ご両親は月一で旅行へ出掛けた。家族揃って最後の旅は北海道。初めて見る摩周湖は息を呑む美しさだったという。家族の思い出に恵まれた友人は、最後の瞬間まで父に寄り添い、亡き母の役割を立派に果たした。亡くなる二週間前のこと。Aさんは母親と妹さんのことを気にしており、自分も死が近いと発言したという。

Aさんが亡くなる四日前。私がお目にかかるのはこの日が最後になった。晩年のAさんは足腰が悪くなっていたようだが、娘に支えられて最期の日々を自宅で過ごした。友人は父親の介護に専念するため、仕事を大幅に削減。万全の体制を整えて介護に備えた。仕事と介護の両立で疲労困憊の日々だったが、愚痴一つこぼさない友人の姿は胸を打つ。一瞬一瞬を大切に過ごした親子の姿を私は決して忘れないだろう。その後父親は救急搬送。一時期は奇跡的に持ち直し、生きる力を示したという。その力は娘に対する感謝の気持ちに違いない。亡くなられたのは残念だが、家族の歴史が次の世代へ継承されたことを意味する。今後は兄妹三人で助け合い、新しい生活を始めていただきたい。ご両親もそれを願っているはずだ。謹んでご冥福をお祈りします。

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