変わりゆく時代と文化。
誰もがテレビにかじりついて見た
昭和の音楽番組は時代を写す鏡だった。

2020年10月7日CULTURE

国民的番組のNHK紅白歌合戦も今や40%を切る視聴率。

かつては50%超えもあったNHK紅白歌合戦。
昨年末に放送した紅白歌合戦第二部の視聴率は37.3%だと言う。
正直なところ、まだそんなに見ている人がいるのかと言う思いだ。

ボクはここ30年紅白を見ていない。
その理由は卒直につまらないからだ。これについては昨年末の放送後、番組関係者もリハーサルから全く緊張感が感じられなかったと語っている。そりゃそうだろう。昔と違いその年を代表するヒット曲が無い。音楽を楽しむ環境はテレビに限らず豊富に有る。紅白を見なくても誰にも年末はやってくるのだ。ではNHKに非が無いのかと言えば決してそんな事は無い。毎年同じ様なテーマ設定。出場歌手もアイドル重視で曲も◯◯メドレーばかり。話題性欲しさの特別枠とかワケの分からない選考基準。ましてや、生歌が披露できない口パク歌手まで現れては、選ばれた歌手にとっても価値が無いに等しい。一言で言うなら明らかに番組の寿命を迎えている。もはや歌で年を語る時代では無いのだ。それ故に出場歌手にとっても特別な番組で無くなってしまったのだろう。今や紅白など一つのテレビ番組以外の何者でもない。ましてやバラエティ番組化した紅白など一体誰が見るの?って感じだ。そこで今回は歌謡曲が輝いていた、昭和の音楽番組とデザインを考えてみたい。思えば昭和の時代は楽曲の素晴らしさに加えて製作側も番組の企画・演出に力を入れて各社がしのぎを削っていた。だから歌手も出演する事が喜びであり、音楽番組はその時代の風を最も感じることができるコンテンツだったのだ。

今もボクの心に残る音楽番組

☆ザ・ベストテン
☆夜のヒットスタジオ
☆紅白歌のベストテン
☆ベスト30歌謡曲
☆SONGS
☆ベストヒットUSA(洋楽)

                                    ☆ザ・ベストテン(1978年1月9日~1989年9月28日)

☆ベストテンオープニングテーマ https://www.youtube.com/watch?v=6ssipSEhBOc

出演することがステイタスだった伝説の歌番組。
フラップ式ランキングボードを使った順位発表も斬新だった。

ベストテンランキングボード

制作はTBS。初代司会者は久米宏と黒柳徹子。放送当時、歌手にとっては出演する事がステイタスだった。ランキングの決定方法はレコードの売り上げ、有線放送リクエスト、ラジオのリクエスト、そしてハガキによる視聴者からのリクエストの合計で決定されていた。
番組最大の特長はそのライヴ感にある。反転フラップ式のランキングボードを使用した緊張感溢れる順位発表。歌手は生出演でオーケストラの生演奏をバックに歌う。そして司会の久米宏と黒柳徹子の軽妙なトーク。ランキング入りした歌手が万一スタジオに来られない場合は可能な限り生中継で歌唱させるというライヴ感覚が最大のウリだった。シンプルな番組構成ながら、今流行っている曲と歌手が生で見られるという明快なコンセプトが視聴者の支持を得て放送開始から大人気番組になった。この番組が支持された理由は他にもある。当時は中森明菜、沢田研二、山口百恵、ピンクレディーという魅せる歌手が多数存在し、彼らが常時ランクインしていたという事も大きい。また当時のポップス系歌手は専用のバックバンドを持つのが当たり前の時代であり、ベストテンではオーケストラと共にバックバンドが一緒に演奏するのもファンにとっては醍醐味であった。
生放送にハプニングは付きものだ。ベストテンが長年生放送で続けてこられたのは、8時だョ!全員集合等の公開生番組で場数を踏んだTBSだから実現できたと言えるだろう。この番組がテレビ界に残した功績は計り知れない。ランキングの連続1位記録について触れておくと、寺尾聰が歌唱したルビーの指環が12週連続でトップ。2位に世良公則とツイストの銃爪が10週連続、西城秀樹のYOUNG MAN が9週連続で3位になっている。

生出演で生演奏をバックに歌う。
徹底したライヴ感重視の番組作りは
歌番組を生の情報番組に昇華させた。

近年司会の久米宏自身が、ベストテンは生の情報番組と位置付けた事が成功の要因ではないかと語っている。歌番組ながら、世界で起きている社会問題や世相、天気情報なども随時取り入れ番組内で放送した事でリアリティーが強調され、視聴者は情報番組と感じていたのでは無いか。当時高校生だったボクも、放送の翌日学校に行くと、ベストテンの話題でもちきりだった事を今でも覚えている。また、番組の売りであった中継についても、新幹線の中から歌った松田聖子や田原俊彦、広島駅の名店街で歌唱した沢田研二など、今ならとても考えられない場所から中継を行っていた。ザ・ベストテンで実証したライブ感重視の番組作りは後にテレビ朝日でスタートした久米宏のニュースステーションにも受け継がれていく。

追いかけます。
お出掛けならばどこまでも。
空港までも追いかけます。

新曲をリリースする度に斬新な衣装で登場した
元祖ビジュアル系歌手、沢田研二の存在が大きかった。

ベストテンの成功を語る上で欠かせないのがランキング常連歌手の存在である。
前述した中森明菜、沢田研二、山口百恵、ピンクレディーに加えて西城秀樹、郷ひろみ。
中でも、ジュリーこと沢田研二の存在によるところが大きい。
ベストテン開始まで、沢田研二はソロ歌手としても成功しつつあったが、それを決定的にしたのが1977年発売のシングル「勝手にしやがれ」である。当時はプロデューサーにワイルドワンズの加瀬邦彦、沢田のバックを務める井上バンドのキーボード奏者大野克夫が作曲、衣装やアルバムのアートワークはデザイナーの早川タケジと一流メンバーで固められていた。これに沢田自身が考えた振付やアイディアを加えて後の快進撃が生まれたのである。
全盛期の沢田研二は歌を小説や物語に例え、沢田自身がその主役を演じることで3分間のドラマを見ている様な気分にさせ、歌謡ロックという独自の世界観を築いた。沢田研二は視聴者に対して次の曲では何を見せてくれるのかと言う期待感を与え続けた事で、人気を不動のものにした感がある。正にテレビメディアを最大限に活用した歌手と言っていいだろう。
1980年、月刊PLAY BOYにもロングインタビューが掲載され、自分は見世物で良いと発言していたのも印象的だった。全盛期から約40年。現在の沢田研二は体型も変わってしまい少し残念な気もするが、人は変わりゆくもの。しかし新しいファンも生まれ、あの美声は未だ健在と言う。

あのジュリーが……
まさかこうなるとは。
☆ボクが選んだ沢田研二の衣装ベスト10  その前に、ボクが沢田研二を好きなワケを。

☆時の過ぎゆくままに

3億円事件を題材にしたテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」
この番組を見て以来沢田研二のファンになった。


主演に沢田研二、出演者は、藤竜也、若山富三郎、篠ひろ子、安田道代、悠木千帆(樹木希林)、細川俊之、伊東四郎という今では考えられないくらいの豪華キャストで固めたドラマだった。複雑な人間関係と共に篠ひろ子さんのキレイだったたコト。沢田研二は横浜のバー「日蝕」専属の歌手という設定で出演していた。ドラマの挿入曲が時の過ぎゆくままにだった。今思えばこの番組を見たことが後に沢田研二に興味を持つきっかけになったと思う。白いシャツにジーンズ、帽子を被った衣装は今見ても新鮮だ。この曲はドラマの挿入歌としてヒットし沢田研二の代表曲になった。まだ中学生だったボクもこのドラマが大好きで毎週欠かさず見ていた。井上バンド演奏のサウンドトラックアルバムも毎日聴いていた。

魅せるロック歌謡の道を切り開いた先駆者
ボクにとって、スーパースターと言えばジュリーだった。


今の時代でも通用するロックサウンドの歌謡曲、洒落た衣装に身を包み、その振り付けまでも自分で考える。自分は見世物で良いと言い切る男らしさ。当時の歌手の中で、ボクにとっての沢田研二はとびきりのカッコいい存在だった。それまで歌謡曲のレコードなど買ったことがないボクが、レコードショップに買いに走った最初の曲が「勝手にしやがれ」だった。以降出すシングル曲の殆どがヒットしてツボにハマった感がある。歌手である以上、歌が上手いのは当然としても、ジュリーには笑いのセンスもあった。8時だョ!全員集合!などの番組にも出演して志村けんとコントを演じてファンを喜ばせた。これについて後に志村けんは、歌手で最も笑いの才能があったのは沢田研二とキャンディーズの伊藤蘭だと語っている。志村と沢田は当時から互いの事をリスペクトしていた。また沢田には作曲の才能もあった。アンルイスに提供したラ・セゾン、自身で歌ったストリッパーなど、数々のヒット曲を生み出した。スーパースターと呼ぶに相応しい存在であり続けた。同世代殆どの歌手が歌う事すら忘れてしまっている中で、沢田研二は今もツアーに出て活躍を続けている。
恐るべし古希というところか。

志村けんとのコント
https://m.youtube.com/watch?v=kwluAirmDEE

ボクが選んだ沢田研二の衣装ベスト10

新曲を出す度に斬新な衣装で注目を浴びた沢田研二。
衣装は新曲をリリースする際に2種類用意され、
リリース後数ヶ月後で新しい衣装にチェンジしていた。

☆1TOKIO(1980)

作詞糸井重里 作曲加瀬邦彦
こんなのアリ?と誰もが驚いた衣装。赤とブルーの電飾付きスーツにパラシュート。当初はアルバムTOKIOのジャケットの様なカウボーイのイメージ設定だったが、沢田自身のアイディアでこの衣装に変更されたと言う。曲の途中で沢田自身がスイッチを入れて電飾が光る。
製作費は当時の金額で総額250万円だったらしい。
この曲は沢田研二の代表曲になったが、その派手な演出が原因で、
バックの井上堯之との関係に亀裂が生じてしまい、後に井上バンドと袂を分かつ事になった。
夜ヒット出演時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=FKZhQV9zhsM

☆アルバムTOKIO

☆2位サムライ(1978年)

作詞阿久悠 作曲大野克夫
スパンコールと刺繍を施したブラウスに、
ハーケンクロイツの腕章をつけた黒革のジャケット。
この衣装は様々な方面から、ナチスドイツを連想させると批判を浴び、作家の野坂昭如も自身のコラムで取り上げて沢田研二に噛み付いた。この結果、当初はハーケンクロイツのマークをに変更して対応したが、ケチがついたことを嫌ったのか後に白の衣装に一新された。
ボクが最も印象深いのは夜ヒットの出演時、畳を80枚敷き詰めたセットで歌った時。ファンの間では今も伝説の畳セットと言われている。
https://www.youtube.com/watch?v=JZ4LbVhahvA

☆✖︎に変更された腕章。

☆3位カサブランカ・ダンディ(1979年)

作詞阿久悠 作曲大野克夫
ハンフリー・ボガート主演の映画
「カサブランカ」をモチーフにした曲。
白のジャケットにパナマ帽、チェックのネクタイ。スリムなブルージーンズのシンプルなカッコ良さ。シングルレコードのジャケットもおしゃれなデザインだった。1979年には、ピンクとライトブルー、2種類のジャケットが作られて賞レース時に着用されていた。イントロではポケットウイスキーの瓶をジーンズのジッパーに挟んで登場、上に放り投げてキャッチし、ウイスキーを口に含んで霧吹きするパフォーマンスが最高にカッコ良かった。映像は紅白出演時のもの。
https://www.youtube.com/watch?v=Kk-7WqfeONI

 

シングル  カサブランカダンディ

☆4位勝手にしやがれ(1977年)

作詞阿久悠 作曲大野克夫
ハンフリー・ボガート主演のフランス映画をモチーフにした曲。
リリース前年の1976年に起きた新幹線暴行事件の汚名を返上するとして年末のレコード大賞を取りに行った曲である。衣装はクリームイエローのスーツ。曲の途中で帽子を投げるアクションも話題になった。この曲は起死回生の大ヒットとなり、レコード大賞の他、賞レースを総舐めした。以降出す曲の殆どがチャートインする、文字通りスーパースターと呼ばれる様になり、翌年の紅白は大トリで出演した。
日本歌謡大賞受賞時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=ZZvs-LjQGnU

☆5位ストリッパー(1981年)

作詞三浦徳子 作曲沢田研二
ストレイキャッツを彷彿させるロカビリーロックで
大判のスカーフを風になびかせて歌う姿が華麗だった。
バックバンドは新しくEXIOTICSが結成されていた。
ベストテン出演時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=q_F-W3iunOU

☆6位ダーリング(1978年)

作詞三浦徳子 作曲沢田研二
水兵をイメージした衣装。ベストテンでは7週連続1位だった。人差し指を口に含むアクションが話題なった曲。ビデオ映像は夜ヒットの出演時のもので、この衣装は、スカーフがTシャツに直プリントされたセカンドバージョン。この曲のリリース当時、沢田研二のコンサート会場でも販売されていた。
夜ヒット出演時の映像
https://www.youtube.com/watch?v=4LmC5qyQSiA

☆7位麗人(1982年)

作詞阿久悠 作曲沢田研二
白いチャイナドレスに三つ編みの付け毛をした衣装。
女性の様な妖艶な姿に魅了されたファンも多かった。
お釈迦様のポーズを取り入れた振り付けも話題になった。
夜ヒット出演時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=tiby8Ctw2x0

☆8位酒場でDABADA(1980年)

作詞阿久悠 作曲鈴木キサブロー
この曲以降、様々な作曲者に楽曲を依頼する様になる。
衣装は黒のジャケットに白シャツ、パープルのTシャツに
黄色のジャケットの2パターンが用意されていた。
全盛期のジュリーはどんな衣装も似合う歌手だった。
夜ヒット出演時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=FOFlJl7vnUU

☆9位どん底(1984年)

作詞大津あきら 作曲井上大輔
ビニールの様な素材にマリリンモンローをプリントした衣装。
全盛期に比べてシングルの売り上げも低調になりつつあり、
「今がどん底です」とタイトルに絡めて自虐的に発言していた。
夜ヒット出演時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=Stakw_cFXUg

☆10位アリフ・ライラ・ウィ・ライラ(1986年)

作詞沢田研二 作曲沢田研二
新バンドCOCOLOを結成して新しいサウンド作りを試みた曲。
アラビア風の赤い衣装を纏い、新境地を切り開こうとしていた頃。
ドレミファドン出演時の映像
https://m.youtube.com/watch?v=KJghM9abDuo

上記で使用した一部の静止画像は
全盛期の沢田研二の歌唱映像を収録したDVD「怪傑ジュリーの冒険」
からのキャプチャだがこのDVDは既に完売している。

☆夜のヒットスタジオ(1968年11月4日~1990年10月3日)

フジテレビ制作。初代司会者は前田武彦と芳村真理。ヒットスタジオはベストテンと同様に生出演で生演奏/生歌唱であるが、こちらは幅広いジャンルの歌手が出演して原則フルコーラスの歌唱で、じっくりと聞かせる構成だった。また司会者と出演者のトークも売り物の一つで、芳村真里の纏う華やかなファッションも話題だった。番組のオープニングは出演歌手の持ち歌を別な歌手が歌ってリレー形式で紹介するのが定番スタイル。また出演者の中の一人を対象に、コンピュータが理想の恋人を選ぶ名物企画も人気があった。これについては山口百恵の出演時、理想の恋人に三浦友和が選ばれており、後に2人は結婚している。

☆紅白歌のベストテン(1969年10月6日~1981年3月23日)

日本テレビ制作。公開生放送。初代司会者は堺正章と水前寺清子。女性司会者は変遷したが、堺は番組の終焉まで司会を担当した。この番組は後のザ・トップテンに引き継がれた。

☆SONGS

NHK制作。2007年4月、大人の心を震わせる新しい音楽番組をテーマに掲げてスタートした。スタジオライブ形式ながら、出演者や曲にゆかりのあるゲストの証言やトークを交えて構成している。J-POPの他、海外のアーティストも出演している。最近の紅白歌合戦出場歌手で度々耳にする特別枠は、本番組に登場した歌手を出場させる為の措置と言われているが、結果的にコレが選考基準の不透明さを指摘される要因の一つであることは否めない。

☆ベスト30歌謡曲(1972年1月5日~1976年3月31日)

テレビ朝日制作。初代司会者は愛川欽也と五十嵐淳子。
ベストテンや夜ヒットの様な大掛かりなセットなどは無かったが、スタジオの大半を占める大型のランキングボードを使用した公開生放送番組。オープニングで司会の愛川欽也が五十嵐淳子に向かって言う「僕たちは何コンビ?」を受けて五十嵐が「淳欽(純金)コンビ」と返すのがお決まりだった。

☆ベストヒットUSA(1981年4月4日~1989年9月30日)

テレビ朝日制作。司会は小林克也。アメリカでヒットしているロックやポップスを中心にヒットチャートの動向を織り混ぜて紹介する音楽番組。ビデオクリップがまだ一般的でない時代の洋楽番組においては深夜の放送ながら抜群の人気を誇っていた。この番組が支持を得た要因の一つが、小林克也の話す流暢な英語と彼の洋楽に対する豊富な知識である。ボク自身もそうである様に、この番組をきっかけに洋楽にのめり込む音楽ファンを作った番組と言えるのではないか。現在はBS朝日で引き続き放送されており、小林克也の軽妙なトークも健在である。

当時が蘇るオープニングテーマ
https://www.youtube.com/watch?v=K05P0_T_MMg

古い物にしがみつくばかりでは晩節を汚すことになりかねない。
そろそろ新しいコンテンツの創造に
知恵を絞る時期ではないだろうか。

ボクの少年時代は、大晦日といえばレコード大賞と紅白の2大番組を見るのが当たり前。どの家でもテレビの前に家族全員が揃って、おせちを摘みながらゆったりと過ごすのが年末恒例の光景だった。しかし今は違う。音楽に限らず娯楽の種類が圧倒的に増えた。また生活様式も多様化している。レコード大賞に至ってはその言葉自体もピンとこない世代が増え、いつしか紅白に押しだされる形で現在は放送日も12月30日に変わっている。昨今、紅白が迷走を始めた原因はここにあると言って良い。何事もそうである様に一社独占になると競争が無い為に何でも有りとなってしまう。その結果努力や工夫することを忘れて堕落していくのだ。人はそれに慣れてしまうと、元に戻すのは容易では無い。厳しい言い方だが、今や紅白はただのバラエティ番組に成り下がってしまっている。時は流れ音楽も変わっていく。そして音楽を聴くスタイルも多様化している。伝統を受け継いでいくことに異論はないが、古いものにしがみつくばかりでは晩節を汚すことになりかねない。思いきって紅白に代わる新しいコンテンツを作ることも必要だと考えるが皆様はどの様に思うだろうか。

2020年10月7日CULTURE