み〜んな来年60歳。 もうこの世に居ない子もいる。 O君、キミにもう一度会いたかった。 幼稚園時代のひな祭り。
2020年10月10日TEENAGE MEMORIES
み〜んな良い顔してるなぁ。
其々お父さん、お母さんになってるのかなぁ。
昭和41年3月3日。54年前のひな祭りに撮影した記念写真。当時のボクは5歳の幼稚園児で名古屋市熱田区に住んでいた。家の裏側には東海道本線と名鉄名古屋本線が走り、電車を見るのが大好きな子供で地元の旗屋(はたや)幼稚園に通っていた。自宅から10分ほどの場所にあったこの幼稚園は同名の旗屋小学校の敷地内に併設されており幼稚園卒業後はその小学校に通うことになっていた。残念ながら幼稚園の記憶は全くと言って良いほど無い。わずかに記憶があるのはこの幼稚園で過ごした日中の生活。昼食を食べた後にお昼寝の時間があった。お昼に何を食べたのかの記憶も無い。給食があったのは小学生以降なので幼稚園時代は母が作ってくれたお弁当だったと思う。薄っすらと残っている記憶では、童話、三匹の子豚が描かれた弁当箱を持っていた。昼寝から目を覚ますと先生がおやつを配る。明治の缶入りドロップ1粒だったと記憶している。当時はどこの幼稚園でもそんなものだった。そしてあの頃は現代の親御さんほど子供に過保護で無い時代。毎日が楽しく、どんな子供にも分別があり道徳心があった。だから不良もいなかったし、虐めなど全然無かった。誰もが当たり前の様にすくすく育っていた時代だったのだ。因みに旗屋幼稚園は既に廃園になっている。
若くして交通事故で亡くなってしまった幼なじみのO君。
あれから50年の時が経ち、この写真に写っている子供はボクを含めて来年60歳を迎える。写真に写っている同級生の名前は今でも殆ど覚えている。名前は出せないが、名古屋の有名企業の社長になっている子もいる。また若くして交通事故に遭い亡くなっている子もいる。幼なじみのO君だ。彼とは偶然にも名前が同じ。ボクは章だが、彼は昭だった。彼はボクの家の近所に住んでいて、緩やかな下り坂の途中に家があった。O君の家に遊びに行った夜の帰り道。電柱には裸電球が灯っていた昭和の時代。幼少の頃から良く遊んだ仲の良い友達だった。勉強ができクラスメートの中でもずば抜けた存在だった。キミとは毎日良く遊んだよね。そしてボクはいつもキミの引き立て役だった。O君とは中学卒業まで同じ学校で過ごしたが、彼が工業の専門高校に進むことになり離れ離れになった。卒業式の日。じゃまた。元気でな。コレが彼と交わした最後の言葉になってしまった。数年後の夏、良く晴れた日曜日だったと思う。目に飛び込んできた新聞記事を見て唖然とした。O君が交通事故で亡くなったのだ。当時の彼はバイクに乗っていた。車と追突して地面に叩きつけられ内臓破裂。即死と書いてあった。ヘルメットも着用していなかった様だ。ボクは固まって声も出なかった。母がボクを気遣い声をかけてくれた。「O君と幼なじみだったでしょ。お通夜に行ってきたら」ボクは父親のネクタイを借りて白いシャツ姿で駆けつけて合掌した。ご両親には「友達の中川です」と切り出すのが精一杯。直後にO君のお父さんが話しかけてくれた。「あ〜キミは昔良く遊びに来てくださったな」お母さんは泣き崩れて全く話せない状態だった。「なぜこんな事に」彼のお父さんは答えてくれた。バイクは危険だから乗るなと言ったのだが、息子は聞く耳を持たなかったと。その瞬間、ダムが崩壊する様に堰き止めていた想いが一気に流れ出た。O君の写真は優しく微笑んでいたが、楽しかった日々の思い出が蘇り嗚咽してしまった。その日から十数年後、O君の自宅は無くなり更地になっていた。理由は今でも分からない。ただ、彼の家が無くなった事でO君との思い出までも一緒に消え去ってしまった気がする。時間は残酷で容赦無い。O君、年老いた今、キミにもう一度会いたかったよ。そしてキミとのかけがえの無い思い出は永遠に忘れないだろう。楽しい思い出をありがとう。いつかまた会おう。
2020年10月10日TEENAGE MEMORIES