18歳の自分に会ってきた。41年前の忘れ物を探して。Memory Almost Full 〜追憶の彼方に〜
2020年10月10日FRIENDS CATALOGUE, TEENAGE MEMORIES
最初に言ってしまおう。今回のテーマ設定は高校の同級生の近況をネットで知り得た事に起因する。
磯貝ありささん。彼女とは高校3年の同級生でありながら殆ど話した事がなかった。後にある事がきっかけでネット検索を繰り返す内に、現在の彼女に辿り着く事が出来たのだ。最初に彼女の事を簡単にご紹介しておく。彼女の肩書はフリーライターということになろうか。ライターとは原稿を執筆する職業だ。その為には記事の元になる取材をしたり関係者にインタビューを試みる事もある。また広告制作におけるコピーライティングを受け持つ事もある。一言で言うと文章制作のプロフェッショナルだ。ボクの本業の極めて近いところで仕事をしていたという訳だ。これには正直驚いた。自分の働く業界にクラスメートがいるとは微塵も思ってもいなかった。更に驚いたのがその輝かしい経歴だ。
♡磯貝ありさ
静岡県出身。名古屋市在住。愛知県立高校卒業後三重短期大学家政学科被服コースに進学。短大卒業後、大手アパレルメーカーに就職して上京。3年後に「サンケイリビング新聞社」のライターに転身。その後、名古屋に移り結婚。出版社「北白川書房」の編集部にてグルメ誌の編集や販促ツールのコピーライティングを担当。1989年フリーとなる。出産前後のブランクを経てライター業を再開。2003年、TBSブリタニカより著書『クセになる店それっきりの店』が出版される。その後、編集プロダクション、朝日新聞名古屋本社、リクルート社、朝日カルチャーセンター等に勤務。取材・執筆、講座企画、事務等に従事。並行してフリーのコピーライター業も展開、大手電機会社のコンシューマーサイトに連載コラム執筆等も行う。後に体調を崩して休養。2016年よりライター業務を再開し、医療系インタビューメディア等での取材・執筆など、幅広く活躍。2児の母。長女は結婚し次女は独立。現在は夫婦2人で暮らす。散歩と瞑想が好き。最近は刺繍にはまりかけている。
彼女も病気や苦難を乗り越えて自分自身と向き合い、今の想いをブログで綴っている
☆一筋の光、降り注ぐ光。女性らしい繊細なココロで綴ったブログだ。
http://tsukikana.hatenablog.com
在学時の印象は
物静かで控え目な萩原さん。
男子のファンも多かったなぁ。
成績優秀な彼女は男子のファンも多かった。クラスメートからは男女を問わずありさと名前で呼ばれていたのが印象的だった。ボクは在学中、彼女が大声で笑っている姿を見た事がない。何よりも直接会話を交わした記憶もない。思春期の女性は男性に比べて大人になるのが早い。在学時の自分からしてみると、どこか冷めた目で見られるのが怖かったのかもしれない。彼女の職歴を知った時、在学当時から、社会や物事を冷静に見つめる感性が備わっていたのだろうと思った。それが社会に出て努力を重ねる事で大きく花開き、今のポジションを築き上げたのだろう。ボクは高校卒業後東京で暮らしたので同級生との関係は全て切れてしまった。だから卒業後、同級生との思い出もない。今後もう同級生と交わる事もないだろうと思っていた。実際、東京で一人暮らしとなるとお金も要るし勇気も要る。正直に言うとそんな思い出に浸っていられないほど孤独感に苛まれていたのだ。当時はまだ携帯もなかった。ネットもメールも無い時代だ。現代の様に、思いついたら連絡ができるようなインフラが整備されていないアナログ時代。ボクが仕事でMacを使い始めた1990年頃になると、ネットが普及して状況が一転した。検索をかけると、先輩や卒業生らの名前を見かける様になったのだ。同級生の名前を検索したのは、切れてしまった級友との距離感を縮めたいと言う思いがあったからだと思う。彼女の名前を検索したのもそんな想いからだ。これが冒頭の話に繋がって行ったのだ。
ありさがライターになっていたとは!
初めて知った時の印象はウソでしょ?。
ボクはグラフィックデザイナーと言う肩書ではあるが、これは職業を説明しやすい為に使っている様なもので、自分ではそう思っていない。敢えていうならデザインもできるプランニングコーディネーター辺りが相応しいのではないかと思っている。ボクの仕事は昔から中途半端なポジションなのだ。これについてはもう諦めているし、この年齢になって簡単に変えられるものでもない。現在の彼女の仕事がライターと聞いた時は、正直驚いたというのが本音だ。ウソだろ〜。まさか自分の周りにこんな才女がいたとはと言う気持ちもある。前述した書籍が彼女の著書であると知った時はそれを通り越して感心もした。自分で書いた本を出版する事は容易では無い。そのポジションまで登り詰める為には、文才があるのは言うまでも無く、他人からそれ相応の評価をされないとできないものだ。ネットを通じた級友との再会は、当時を懐かしむというよりは、自身の記憶を呼び覚まし、彼女の辿って来た道を讃えたいという想いに近い。幸いにもボクらの世代はまだ昔を懐かしむ様な年齢ではない。最前線で活躍している同級生の辿った道を知る事は大変興味深いし、ひいては自分自身の可能性を広げようという気持ちにも繋がっていく。神様が授けてくれた旧くて新しい友人との出会いは新しい思い出作りといって良いだろう。そこで今回は自分の高校生活を振り返りつつ、同級生の力を借りて40年前の忘れ物を探しに出掛けてみる。ありさ〜電車が来たよ。これに乗り遅れると遅刻するよ。
ブログを始めて一番嬉しい出来事が
同級生の近況を知るきっかけになったコト。
50歳を超えたあたりから歳を重ねるごとに涙脆くなり、日に日に酷くなっている気がする。
元々感激しやすいタイプだが最近は悲しいことに遭遇する事が多い気がする。親や知り合いとのお別れ。若くして病気になりこの世を去った知人もいる。この歳になると心だけでなく体もガタが来始めてくる。今まで大きな病気をした事のないボクが、一昨年は人生初の入院を経験した。東京に行って以降一度も医者にかかった事がない強靭な体のボクがである。妻から聞いた話では退院する際、車の中でむせび泣いていたそうである。独立して25年、体を酷使しながら今日まで苦労して来た思いが一気に湧き上がったのだと思う。それだけ長い時間を生きてきたという事だろう。両親や家族、素晴らしい友人に巡り合い、周りの人に支えられて生きて来られた事は純粋に感謝しているが、そこには数々の出会いと別れがあった。奇しくも今の時期は卒業式の季節だ。そして来年還暦を迎えるボクらの世代はこの先、人生そのものに卒業する時も必ず訪れる。だからこそ、いつそれが訪れても良い様に悔いのない日々を送りたい。今更だがそれがブログを始めたきっかけでもある。自分が歩いた足跡を辿り、記録する事はとても大切な事だ。生きた証にもなる。自分が迷った時、将来亡くなった時、ボクがどの様に生きたのかを紐解く事で、家族や自分の周りの人の何かの参考になれるかもしれない。本ブログがお世話になった多くの人へ、せめてもの感謝の記しになれば嬉しい。
ピンクレディーが全盛の時代だった昭和54年(1979)卒業。
そもそも青春時代とは何歳までを言うのかな?
ネットで調べてみたら面白い結果が出ていた。最も多かった答えが20歳まで。次が大学卒業の22歳まで。20代まで。死ぬまでという答もあった。ま、それも良いけどボクならこう答える。恋心を抱かなくなるまで。他人前で声を出して笑えなくなるまで。青春時代ってそういうものじゃないのかな?仲間と共に人を憚らない大きな声を出して笑う。好きな女性に恋心を抱きドキドキしていた頃。ボクが思う青春時代はこの2つに尽きる。コレがなくなったら青春時代は終わりと定義しても良いと思うのだが。ボクの場合、前者はまだ持ち続けている。青春時代に特別な感慨はない。昔から中途半端で真面目なヤツだったが女性に対しても奥手だった。卒業が近く、自分の周りが夢を語っていた頃、ボクは自身の未来を描けないただただ苦悩する日々だった。そして世の中を少しだけ斜に構えて見ていた生意気なヤツだったのだ。
ボロい旧型国電に揺られて通った県立高校。
乗車時間が長く、日々車中で眠る状態では勉強する気が起きるワケも無い。
ボクが卒業した県立高校は新設校で3回生だった。母校は通学時間がかる市内の外れに位置していた。在学当時のボクは名古屋市熱田区に住んでいた。家の前が市バスの停留所。自宅の北には名鉄金山橋駅と国鉄金山駅、南には国鉄熱田駅と名鉄神宮前駅があり、どちらの駅も自転車で行けるという極めて便利なロケーションだった。通学距離を簡単にいうと名古屋のほぼ中心部から北東の端まで通うことになる。従って電車に乗っている時間が長い。また電車がボロだった。70系という旧型国電だ。この列車は編成の中間にサロ(一等車)を改装したサハを挟んでいた。良いところといえばこれぐらいしかない。乗車時間が余りに長く疲れてしまい、車中はずっと寝ていた記憶がある。後に首都圏から転属してきたスカイブルーの103系に変わったが通学時間の長さは改善されなかった。
根拠の無い理不尽な校則には唯々我慢。
いつしかボクの反骨精神になっていった。
学校所在地には校舎以外殆ど何もなく、ここはホントに名古屋市ですか?と聞きたくなるような環境だった。また母校は教育開発指定校とか言うワケの分からない方針の、理不尽極まりない厳しい校則だった。月一で頭髪検査と持ち物検査があった。男子は耳に髪の毛がかかってはいけない。女子はゴミ箱を足元に置いてスカートの丈がそれ以上長いとアウトとされた。何だそれ?って感じだ。当時の母校は生徒を枠にはめて評価するというアンポンタンな教師が多かった。何もかも根拠が無く理不尽極まりない。コレが教育ですか?という反発心しか生まれてこなかった。当時のボクは髪も長めで検査の時は耳の周りを固めて逃げ切った。但し服装検査でイチャモンをつけられたことは多々あった。3月の寒い日の月曜日、胸にミッキーマウスの刺繍が施されたブルーのセーターをブレザーの下に着込んでいた時の事。ある教師がボクに向かって呟いた。「ちょっと待て。そのセーター派手だな」「これが派手ですか?」アホか?ミディアムブルーが何で派手なんだ?それ以来、学校で学ぶ事がバカらしくなり勉強する気も消え失せた。こんな学校はとっとと卒業した方が良い。1年間黙って我慢すればこの学校とおさらばだと言う気持ちだった。入学して瞬く間に2年が過ぎた。当時のボクはクラスメートとロックバンドを組んでいた。そんな事で目をつけられていたのかも知れない。因みにデザイン学校卒業後、東京で就職した後も仕事仲間とバンドを続けていた。
高2の時、自宅から生ギターを持ってきた友人達と一緒に歌った事は今も鮮明に覚えている。
洋楽との出会いがバンドを組むきっかけだった。
初めて聴いて涙がこぼれたプリーズ・プリーズ・ミー
青春の切ない思い出はいつもビートルズの曲と共にあった。
始まりは歌謡曲。その後中学生で深夜放送を聴く様になり、洋楽志向に変わった。父親が洋楽を好きだった影響もあるのかもしれない。当時はカーペンターズが流行っていたがボクにはキレイすぎてしっくりこなかった。高校入学後一時期は沢田研二にもはまったが、クラスメートの影響もありビートルズに興味を抱く様になった。ボクはリアルタイムでビートルズを聴いた世代ではない。聞き始めた頃、ビートルズは既に解散して数年が経っていた。きっかけは高校2年でバンドを組んだ時。鶴舞公園にある名古屋市公会堂でビートルズのフィルムコンサートを見に行った。そこで初めてビートルズのライヴ映像を見た。曲はPlease Please Me だったと思う。初めて聴いたにも関わらず体が熱くなり、グッとこみ上げてくるものがあった。なぜか涙も出てきた。何だこの感覚は?その日以来、自分が探していた音楽はこれだったのかと思った。以降明けても暮れてもビートルズサウンドを追い続けて、気がついたら60前のジジイになりつつある。ボクはこう見えても幼い頃は親の意向でピアノ教室にも通っていた。ピアノ教室ではクラシックを弾いていたそうだ。ピアノはもうすっかり忘れてしまったが。高校時代にはバンドをやりたかったので父にベースを買ってもらい一生懸命練習して覚えた。なぜベースなのか。ビートルズの中ではポール・マッカートニーが一番好きだったからだ。ポールが作曲したメロディアスな楽曲はいうまでもなく、ヴァイオリンベースを弾きながら歌うカッコいい姿に憧れたからだ。理由はもうひとつある。ボクの指は短いので元々ギターの演奏には向いていない。となると必然的にベースかドラムしか選択肢はない。ドラムを演奏しながら歌うのは絵的にも宜しくないと思いベースを選んだ。成人して東京のデザイン会社に就職後もバンドをやっていた。その頃にはドラムも叩ける様になっていた。音楽は聴くことも演奏も楽しい、そして人それぞれに思い出がある。人生の経験や体験が映像で記憶に残り、その時聴いていた曲が重なることで思い出は脳裏に深く刻み込まれる。ビートルズを知って以降様々な音楽を聴いてきたが今だに彼らを超えるくらい夢中になった音楽に巡り合っていない。ならばもうこのままで良いかと言う気持ちだ。多感な年頃に夢中になった楽曲はいつまでも心に残る。ボクの青春時代は良くも悪くもビートルズサウンドと共にあった。
バンド仲間と当時の自分にはこの曲を贈る。
フィルムコンサートで初めて聴いたビートルズナンバー、
オリジナルのヴォーカルはジョン・レノンだが、ジョンは既に亡くなっている。
少しテンポを下げた演奏でポールが歌うこのバージョンも感慨深い。
世代を超えた観客が其々の思い出に浸っている姿は
年老いた今の自分を若き日に連れ戻してくれる。
☆Please Please Me / Paul McCartney(2006 US TOUR)
https://www.youtube.com/watch?v=zS4AJYPhg7o
今回の記事はボクの独断で思い出の曲をセレクトしている。
当時の自分が聴いていた曲、自分の心を代弁している曲、
友人や仲間と過ごした時間が蘇る曲、
そして大切な友人に感謝を込めて贈りたい曲だ。
落ち込んだ時、どんな薬よりも効果がある曲もある。
疲弊した心に灯火をともす曲もある。
ボクはそうやって自分を奮い立たせ生き抜いてきた。
こんなイメージじゃ無いよと批判する仲間もいるだろう。
ゴメンよ。でもボクはあの時代とキミ達が大好きなんだ。今でもね。
家庭訪問で担任に食ってかかった高3の春。
理不尽な事は例え先生でも許せなかった。
高校生活最後の年。3年生に進級した年の春。担任の家庭訪問があった。部屋の壁にはあちこちにビートルズの大きなポスターがピンナップされていた。家庭訪問の前日、母親が部屋をきれいに片付けてくれたが先生は部屋に入るなり壁一面に貼られたポスターをジロジロと見回した。学生生活においては、だいたいこの時期から問題を起こす輩が現れる。家庭訪問はその抑止力の意味があったのだろう。喫煙や万引き。中には女性問題でトラブルを起こす奴も出る。こう見えてもボクは真面目で奥手な少年だったので、騒ぎを起こす事などある訳がない。在学中にタバコを吸った事すらない。タバコに手を出したのは浪人してからだ。ところが家庭訪問の日、部屋の中には大きな灰皿が置いてあった。この灰皿は中学3年の時、家庭教師さんが来た時にタバコを吸うための物で以降そのまま放置してあった。灰皿を見つけた先生が開口一番こう言った事を覚えている。「中川、お前タバコ吸うのか?」ボクは即座に反応してこう答えた。「先生はボクがタバコを吸っていると思っていますか?」「いや思っていない。」だったら何でそれを言うかな?の心境だった。もしボクが本当にタバコを吸っていたら隠しておくはずだ。今だから言うが、実は灰皿を放置していたのは先生を試す為だったのだ。ボクは即座に先生に食ってかかった。先生方は何事も先入観で生徒を見ているのではないか。ボクはそう言うのが一番嫌いです!今から思えばよくそんな失礼なことを言ったと思うのだがコレは事実なのだ。ただその時、先生はボクの言い分を一生懸命聞いてくれた。それが一番嬉しかった。ボクの部屋で1時間ほど話した記憶がある。それ以降ボクは先生と心が打ち解けたというのが本当のところだ。当時の教師は全員揃って生徒を枠にはめようとするアンポンタンな教師ばかりだった。担任からしてみれば、コイツは厄介な生徒だと思っていたかもしれない。その1年後、大学受験の際に頂いた内申書を開封して見たことがある。こう書かれていた。真面目でめっぽう正義感が強い。仲間をまとめるムードメーカー的存在。曲がったことの嫌いな生徒である。アレ、結構良く見てくれていたんだなと。本当に生意気な17歳だった。もう一つ面白い話がある。当時学校で行われていたクレペリン検査(職業適性検査)の結果は教師と記されていた(笑)教師に食ってかかる生徒の適性が教師とは。これには笑った。因みに今のボクの髪型は理不尽な校則に対する反発心の名残と言って良いかも知れない。
笑いが絶えなかった個性豊かなメンツ。
そして誰もが笑いのセンスを持っていた。
卒業アルバムに写る同級生は笑いのセンスを持ち合わせていた。中央の画像で左手にやかんをぶら下げて写っている彼はクラス1番の秀才だった。彼とは毎日冗談を言い合ってよく笑った思い出がある。成績優秀であるにも関わらず、分け隔て無く友達と見てくれた事が何よりも嬉しかった。ボクの学生生活には常に笑いがあった。コレが原点。いつも仲間と大きな声を出して笑う姿があった。この傾向は後の東京生活でも続いていた。手元に残った卒業アルバムにはその思い出がしっかりと刻まれている。ボクらの時代はケンカとかイジメは全く無かった。以前にも書いたが誰もが言われなくても最低限の道徳心を持っていた。中には問題児もいたが警察沙汰になる様な輩は誰1人いなかった。そして何よりも忍耐力があった。今の時代は個人の権利は声高に主張するが我慢する事ができない自分勝手なアンポンタンが多すぎる。クラスメートも皆来年還暦を迎える。誰もがここまで来るのに色々なドラマがあっただろう。友人達よ、ありがとう。今は素直に喜びあい、それぞれの人生を讃えよう。
下校時いつも一緒だった作ちゃん。
キミがもうアルバムでしか会えないとは。
役者のような顔立ちのY君。作之助という古風な名前でクラスメートからは作ちゃんと呼ばれていた。下校時良く一緒に帰った友人だった。彼とは色々な思い出がある。当時は栄の中日ビル内に東芝のショールームがあった。そこでは好きなレコードを借りて、各部屋に設置されたオーディオセットを使って大音量で視聴する事ができた。土曜の午後、ボクらは下校時にそこに良く行った記憶がある。「今日行く?」「良いよ」彼ともう1人の友人と連れ立って出掛けていた。彼の最も良いところはウソをつかない性格。いつも本音で接してくれた。いつもボクの話に耳を傾けてくれて、相談事も真剣に聴いてくれた。落ち込んだ時、彼は微笑み決まってこう言ってくれた。キミは考えすぎ。余り深く考えちゃダメだよ。ボクにとって彼は最も信頼できる友人だった。仕草はちょっと女性的だったけど、ボクは男らしい奴だと思っていた。時は流れて30年。2008年初めての同窓会が開かれた。会の冒頭で先生から出た一言はあまりにも突然で同級生からは驚きの声が上がった。「作之助だが彼は死んだ」場は静まりかえり宴の気分も覚めてしまった。先生はそれ以上語らなかった。死因は今も分からない。この歳になると、何が起きてもおかしくはない。帰り道、参加者の誰もが再会を喜び、次の約束を交わす友は大勢いたがボクはそんな気分にはなれなかった。明らかに彼の訃報に接して動揺していた。当然だ。彼と再会できるのが楽しみで出かけた同窓会で彼の訃報を聞くなどあり得ない。帰宅して妻が聞いてきた。「どうだった?みんなに会えた?」ボクは何も語らず1人部屋で想いにふけった。作ちゃん。君がもう居ないなんて信じられないよ。親しい人が亡くなった時はいつも思う。人生は無常。誰もがいつか亡くなる。親が亡くなるのは諦めもつくが、若き友人の死は心底堪える。彼ほど本音で接してくれた友人はいなかった。作ちゃんありがとう。誠実なキミのことは絶対に忘れない。いつかまた会おう。
優しかった作ちゃん。キミにこの曲を手向ける。
☆Yesterday/Paul McCartneyl(2006 US TOUR)
https://www.youtube.com/watch?v=awCnNnmA6xk
思い出深いありし日の名鉄金山橋駅。
駅構内には一杯飲み屋があり、おでんの香りが充満していた不思議な駅だったが、
世界デザイン博覧会の開催を機に閉鎖され現在の金山総合駅になった。
在学中唯一の恋人だった。
一目惚れで速攻アタック。
クラスメートにバレないよう隠し続けた17歳の恋。
こんなボクでも切なくほろ苦い思い出がある。在学中最も好きだった元カノ。高校3年生の初夏。友人がセッティングしたボウリング。千早にあるブランズウイックスポルト(現在のスポルト名古屋)だったと記憶している。その友人が連れてきたクラスメートに一目惚れしてその日のうちに交際を申し込んだ。彼女とはそれまで一言も話したことは無かった。帰宅後、彼女の家に電話をして告白した。キミのことが好きだ。付き合って欲しい。私も同じよと言ってくれた瞬間のうれしかった事。彼女とは偶然にも通学時、電車の乗降駅が同じだった。交際を始めた際に最も気がかりな事は同じクラスだと言う事。周りに感づかれると噂が広がり彼女も嫌だろうと思った。そうなると男子連中もよそよそしくなり友情にヒビが入ると思っていた。よって、いかに周囲に感づかれず付き合うかに最大限の注意を払った。通学時は時間が被らないように時差をつけて駅に行った。また、もし駅で見かけても互いに声をかけなかった。ボクは自宅前から市バスに乗り金山で降車。金山からJRに乗って最寄り駅で降りる。現在の金山総合駅は世界デザイン博覧会開催に合わせて開業した駅で、当時は名鉄が金山橋、国鉄が金山と名乗る別々な駅だった。学校帰りは最寄り駅から乗車して金山で降車、ボクはそこから市バスで自宅前のバス停まで。彼女は名鉄金山橋駅まで歩き、そこから神宮前駅まで名鉄に乗車して帰っていた。偶に市バスに乗った直後、名鉄金山橋駅まで歩く彼女の姿を見かけたことがあった。そんな時、ボクは次の駅の沢上町(サワカミチョウ)で降車して名鉄金山橋駅まで猛ダッシュで戻った。古い駅前商店街の坂を下るとその先に切符売り場があり券売機が置いてあった。そこで息を切らしながら彼女を捕まえて声をかけた。あの時の彼女の呆れた顔は今も覚えてる。???って感じだ。今キミを見かけて猛ダッシュで走ってきたんだよ。それくらい彼女が好きだったのだ。その後順調に交際が続く中、徐々にボクの悪い癖が出始めてきた。一度好きになった人には必ず告白してとことん愛するのがボクの心情。しかしその反動か自分の未熟さからか、ちょっとした気に入らない事があると自らそれを壊してしまうのだ。恋人も、仲間もそうだった。ムードメーカーでありながら、周りが協力してくれないと感じると自らぶち壊してしまう困った性格。当時の彼女に対して許せない些細な事があったのだと思う。今から思えば唯一ボクが幼かっただけだ。我慢すれば良かっただけだ。思えばその頃のボクは彼女にしょっちゅう八つ当たりをしていたと思う。そんなボクに対して彼女はよく我慢したと思う。その後数ヶ月してボクらは卒業前に別れてしまった。当時のボクは偉そうな事を言いながら彼女には何も返せなかった。ボクは今でもそれを悔いている。わがままで幼いボクを心から愛してくれた女性だったのに。ボクは自分に酔っていて一番大切なモノすら理解できていなかったのだ。それは他ならぬ人のココロだ。彼女と別れてボクは自己嫌悪に陥った。従ってボクには卒業式の切ない思い出がない。あるのは彼女と別れた寂しさと後悔の気持ちだけだった。
元カノの写真は一枚も残っていない。撮った覚えもない。卒業しても、順調に恋を育てて行くつもりだった。ずっと好きだったし、ずっと続いていけるだろうと考えていた。だから写真に残す必要などないだろうと勝手に思っていた。彼女とは時間の許す限りいつも一緒にいたかったし、ボクの家にも遊びにきてくれた。母が可愛い娘ねぇと言ってくれた時は本当に嬉しかった記憶もある。アルバムに写る彼女は少しはにかんだとても良い表情だ。一つだけ残念なのは現在の彼女に連絡がつかない事だ。彼女の記事を公開する以上、事前に許可を取るべきではないかと思い続けてきた。今は個人情報の漏洩に敏感な時代だ。母校に連絡して最新の同窓会名簿の取り寄せを図ったが、名簿自体もう発行できないのですと言われてしまった。面倒な時代になったものだ。そこで考えた。2008年に開かれた同窓会の関係者なら知っているのでは。でも敢えて尋ねなかった。個人的な想いでそれを尋ねるのには勇気もいるし気が引けた。何よりも今の彼女の心を侵害したくなかったのだ。
彼女とデートした数々の思い出は
今もボクの心に残る心地良い場所。
彼女とは楽しい時間を過ごした数々の思い出がある。まだ週休二日制でなかった土曜日の学校帰り、ボク達は名鉄の金山橋から乗車して新岐阜まで数回往復した。名古屋の人なら分かるだろうが、当時の名鉄は殆んどが2人掛けのクロスシート車だったからたっぷりと会話が楽しめた。敢えて所要時間が掛かる普通電車に乗った事もしばしばあった。夏のある日。快晴の日曜日には近鉄特急に乗って鳥羽まで旅した事もあった。車中、2人で食べたお弁当の美味しかった事。彼女の弾けるような笑顔はホントに可愛かった。鳥羽ではミキモト真珠島に立ち寄って小さな真珠が一粒付いたネックレスを買い求め、帰りの車中で彼女にそっと手渡した。決して高級品ではなかったがとても喜んでくれた事を今でも鮮明に覚えている。彼女と過ごした数ヶ月は何もかもが幸せだった。付き合っていた同級生の彼女とは、バレンタインデーの記事に書いた女性の事である。何よりも心の優しい子だった。当時の自分はホントに偏屈な男だったと思う。自分勝手で独りよがり。女性に対する包容力もなかった。こんな話もある、彼女がボクと交際中に、数人のクラスメートから付き合って欲しいと言われたそうだ。この時は正直動揺した。コイツら、こちらが皆に配慮して付き合っているのにあろう事かボクの彼女に手を出すなんて。でもそんな時でも彼女はボクを選んでくれた。そして告白してきたクラスメートにはそっと断りを伝えたそうだ。思春期の女性は男性よりも遥かに大人だ。彼女と別れた1年後の3月、浪人中のボクは大学受験に尽く失敗。東京で一人暮らしをしながらグラフィックデザイナーになるべく専門学校に通う決意をした。その時何を思ったのかボクは彼女に電話をかけた。「東京に行くことになったんだ。キミにお別れを言いたくて」そして彼女にさりげなく聞いてみた。今付き合ってる人いるの?彼女は「うん」とだけ答えた。別れて1年が経過していたから当然だった。ボクが東京に行く事を決めたのはデザインの勉強をしたいというのが1番の目的。そして今まで寄り添ってくれた彼女に対して感謝するどころか辛い思いばかりさせてしまった自分が腹立たしかった。もう一度自分を磨くところから始めようと思ったのが本当のところだと思う。彼女はそんなボクに対しても「元気でね」と優しく声をかけてくれた。情けない話だが、電話を切った後、ボクは涙ぐんでいた。自分の愚かさに腹が立ち、自分がした事を悔いていた。その後デザインを勉強する為に、東京で一人暮らしを始めたが、彼女の事は忘れられなかった。自分の気持ちにウソはつけない。分かってはいたものの喪失感で何をする気も起きなかった。それでも敢えて彼女への思いを断つ為には、1人になりデザインの勉学に打ち込むしか選択肢がなかったのだ。
初めての同窓会だったが彼女には再会できなかった。
高校卒業後29年が経過した2008年に開催された初めての同窓会。そこでもし彼女に再会できたら当時の事を謝るつもりだった。しかし、彼女は現れなかった。その時は幹事からご家族の体調が悪かったので不参加だと聞いた。真相は分からない。もしかしたらボクと会いたくなかったのかもしれない。ただ、大人の女性になっているであろう彼女に一目会って当時の謝罪と感謝の気持ちを伝えたかった。彼女にしてみれば、今更それも迷惑かも知れない。
後悔先に立たず。因果応報、自分を責め立てる言葉が次々に浮かんで来る。
彼女の心を傷をつけたままで、この先もう二度と会えないのは辛すぎる。もしこのブログが彼女の目に止まる機会があれば声を大して言いたい。数々のステキな思い出を作ってくれてありがとう。最後はああ言う形になってしまったけれど、ボクはキミの事が大好きだった。全ての責任はボクにある。最も大切なキミの心を傷つけてしまったから。でもね、キミと別れた後もボクはキミの事が大好きだったんだ。東京に行ってからもずっと忘れられなかった。キミと過ごした楽しい思い出は今後も一生忘れない。
もし神様がいるのなら、彼女と再会できるチャンスを授けてほしい。
未熟な男だった当時の自分。
受験勉強に嫌気がさして、
元カノと付き合っていた頃はこんな心境だったのかも。
☆Honesty/BILLY JOEL(1978)2006東京ドーム公演
https://www.youtube.com/watch?v=LNpbDzNG45Q
当時の想いが蘇るこの曲は現在の元カノに贈りたい。
☆He Comes The Sun THE BEATLES (2019 Remixed)
元カノと交際時、部屋で良く聴いていた曲。
卒業で仲間と別れる寂しさに加え、破局に近づいていた自分たちの恋が重なり今聴いても切ない。
美しいメロディーでアコースティックギターとハンドクラップが印象的な曲だ。
恋人達と鳥のアニメーションで表現されたビデオクリップは、当時の自分達から羽ばたいて行った恋心を連想させ、17歳の自分に戻った様な気分になる。
ボクはこの表現が特に好きだ。
Little darling, I feel that ice is slowly melting
Little darling, it seems like years since it's been clear
https://www.youtube.com/watch?v=KQetemT1sWc
不思議の国のありさは
娘の幸せを願う母のありさになっていた!
今回の記事を書くに当たっては、同級生の近況を知った事がきっかけになった。事の経緯はこうだ。以前ボクがネットで本を探していた時に、一冊の本の表紙画像が目に入ってきたのだ。「クセになる店それっきりの店」(磯貝ありさ)このタイトルは広告制作関係者かコピーライターの匂いがプンプンした(失礼!)加えて著者名のありさという名前が引っ掛かった。作家や執筆家の名前でありさという名はそうそう多くはない。もしかしたら同級生か?とも思った。名字の磯貝は結婚して変わったのだろうと勝手に推測していた。だがいくら検索しても著者の画像が見つからなかったので確信には至らなかった。数年後の先日。次回のブログは卒業をテーマにした記事を書こうと考え、思い出した様に彼女の名前を再検索したところ幸運にも画像が見つかった。ご本人曰く10年近く前の画像らしいがボクにはピンときた。間違いない、クラスメートの彼女だと。また幸運にもメールアドレスが記されていたので要件を記述して送信してみた。正直に言うと返信が来る事は期待していなかった。何よりも個人情報の流失に過敏な時代だ。だからアドレスも当てにならないと思っていた。仮に正しいとしても本人から返事が来る保証もない。女性からすれば、どこの馬の骨かも分からない奴に返信するのは危険極まりないと思われて当然だからだ。ところがその日のうちに返信があった。はい、旧姓◯◯ありさです。この丁寧な書き方。プロとして仕事をしている証拠だと思った。普通ならお元気ですか~?という軽い書き出しでもおかしくない。その日からメールを交わして彼女の近況を知り、当ブログへの記事掲載を快諾してくれた。
今も最前線で活躍している同級生の姿を知るのはとても誇らしい。
卒業から40年、昨年の冬に撮影したと言う画像の彼女はすっかり大人の女性になっていた。女性は結婚後、家事に子供の世話となると、いつしか他人の目を気にしなくなる場合もある。仕事をしている女性なら尚更の事だ。思い出は色褪せ、人を現実に引き戻す。仕事をしながら、自分を見失わず新鮮な気持ちで暮らす事は容易で無い。その様な中でも自分を磨いている彼女は今も若々しく尊い存在だ。ボクのブログは思うままに書き連ねた物だが、彼女のそれは自分の環境を素直に受け入れて日々の幸せを噛み締めている様に綴られている。高校時代の引っ込み思案に見られがちだった彼女とは異なり、生きる喜びを感じて前向きな人生を歩んでいる姿が表現されている。同級生の彼女が努力を重ねて才能を開花させ、今も最前線で活躍している姿を知るのは友人として誇らしく嬉しい。ここに至るまでの努力は並大抵のものでは無かっただろう。記事の制作に当たっては、貴重な画像も掲載させて頂いた。また、在学時の心温まるロマンスについても知る事ができた。そして多忙の中を深夜まで校正を行ってくれた事には唯々感謝を申し上げたい。彼女とはいつの日か共に仕事ができればこれほど嬉しい事は無い。彼女の人生を讃え、今後も幸多い日々である事を心から願って止まない。神様、素晴らしい友人との再会を授けてくれて有難う。
ありさ、とても楽しかったよ。最後まで助けてくれてありがとう。
2020.3.14.Special Thanks Arisa!
物静かで引っ込み思案だった学生時代のありさにはこの曲を贈る。
☆Desperado/DIANA・KRALL
ダイアナ・クラールはカナダ出身の女性ジャズピアニスト。
ハスキーで情感豊かな歌声で5度のグラミー賞を受賞。
近年はポール・マッカートニーのアルバムにも参加。
https://www.youtube.com/watch?v=BoWgjz0A_Gs
時は流れ、娘の幸せを願う母として
柔らかな陽の光で家族を包み込む彼女。
少女の心を持ち続ける今のありさにはこの曲を贈りたい。
☆GolDen Earth Girl/Paul McCartney(1993)
https://www.youtube.com/watch?v=bGyAjXpnFjs
頑張って生きていれば必ず良い事があるよ。
作ちゃんがありさに辿り着かせてくれたのかな?
近年よく耳にする話がある。現代人は見た目年齢8掛けだそうだ。
実年齢50歳でも外見は40歳、60歳なら48歳に見えるという事。同感だ。ネットで辿り着いた同級生の彼女も若い。そして美しい。彼女が今や2人の成人した子がいる母親だと言われるとこちらが戸惑ってしまう。正に奇跡の50代だ。これは何よりも彼女自身の努力の賜物だろう。人は誰もが老いて行く。それを止めることはできない。だからこそ、日々新鮮な気持ちで生きる事はとても大切だ。彼女の容姿がそれを如実に語っている。自身の努力で才能を開花させ、仕事を極めた彼女は著書まで出版した。ボクなど足元にも及ばないほどの経歴の持ち主と言って良いだろう。彼女も現在、自身のブログを綴っている。女性として、母として、時に娘として、日々の生活を見つめた内容は彼女の持つ温かな心配りを感じ取る事ができる。タイトルや文面から拝察すると、様々な悲しみや苦難を乗り越えて生きてきたのだろう。
「一筋の光、降り注ぐ光。」今や彼女自身が大きな太陽となって家族を照らし、降り注ぐ希望の光になっているのだと思う。在学時直接話した事が殆ど無かった同級生との再会は千載一遇と言って良い。若くして亡くなった同級生の作ちゃんは生前ボクにこう言っていた。頑張って生きていれば必ず良い事があるよ。作ちゃん、君の言う通りだったよ。キミが彼女に辿り着かせてくれたのかな。
近年は、仕事仲間と旅を重ねた3年間。
青春時代の思い出は今も色褪せていない。
これまでも、そしてこれからも、
心の糧として生き続けるだろう。
ずっと探していた41年前の忘れ物は
元カノへの感謝の心。
旅を終えて、ボクの忘れ物を見つける事ができた。それは大好きだった彼女の心を傷つけた事への謝罪と感謝の気持ちだ。いつか彼女に直接会って謝罪しよう。いつかいつかと思いながら名古屋を離れ、結局彼女に伝える事ができなかった。実現させる機会は何度もあったにも関わらず尽くスルーしてきた。口だけの情けない奴だったのだ。ボクはそんな自分を今でも恥じている。自分を愛してくれた人と再会できない事が人生で一番堪えると言う事を彼女に教えてもらったのだ。今から16年前の2004年4月、25年ぶりに母校を訪ねた事を思い出した。校舎に入ると生徒が声をかけてきた。「こんにちは。何かお手伝いしましょうか」正直驚いた。それまで、母校は世間から極めて評判が悪い学校に成り下がっていたからだ。ボクは用件を伝えようと話し始めた。こんにちは。ボクは25年前の卒業生なんだよと切り出した。若い生徒は目を丸してこう言った。ホントですか?大先輩ですね。ニコニコと話す男子生徒の制服はほとんど変わっていなかったが女子の制服は今風のおしゃれで可愛いものに変わっているらしい。その後用件を済ませて校舎の南西に出てみた。アルバムで先生と一緒に立ち並び写っている場所だ。聞こえてくるのは風の音だけだったが温かな香りがした。昔の様にアキラ!という声が聞こえてきそうだったが、そこに同級生がいるはずもない。母校を訪れた事で当時の感覚が呼び戻されたのだろう。ボクはそこでも元カノの姿を探していたのかもしれない。その日から更に16年。互いに歳を重ねている。時間は戻す事はできないが作る事はできる。ボクは夢を見るような男ではないが、いつの日か彼女に再会できる事を実現させたいと正直に思う。◯◯、あの時はごめんなさい。ボクが原因でキミの心を傷つけてしまった。でもキミと付き合っていた時は本当に幸せだった。未熟で至らぬボクを愛してくれてありがとう。キミには今まで何も恩返しができなかった。でもずっと大好きだったよ。大切な思い出と温かい心を授けてくれてありがとう。いつの日かまた会えたら嬉しい。
笑いが絶えなかったクラスメートには感謝を込めてこの曲を贈る。
☆The Long And Winding Road/Paul McCartney(2009 NewYork Live)
https://www.youtube.com/watch?v=JFNaOm6U5n8
今の自分にはこの曲を。
一昨年倒れた時は気力も失せ、
事業の清算も考えて苦悩する日々だったが、
この曲との出会いが再起を決意するきっかけになった。
☆I Don’t Know/Paul McCartney(2018)
https://www.youtube.com/watch?v=aef2eV7GmQw
2020年10月10日FRIENDS CATALOGUE, TEENAGE MEMORIES