桜の花びらと共に去った父。
家族と音楽をこよなく愛し、
誰よりも人を愛した人生だった。

2020年10月6日FAMILY STORIES

旧実家前で妹が撮影した写真。服装から推測すると、東京で就職後のボクと父。
ボクが22歳頃、父が48歳前後だろう。画像後方に母の後ろ姿が写っている。

この記事を亡き父に捧げる。

生前の父と親交があった方に会う時は決まってこう言われる。目から上がお父さんにそっくりですね。その様にしみじみと思った事は無いが、長年父と親交があった方の見解となると、あながち否定する事もできない。13年前の春、72歳で亡くなったボクの父親。若くして父親を亡くしたにも関わらず、2人の弟を大学に通わせた苦労人だった。思い起こせば2007年の3月末、母から電話が入った。「お父さんが倒れたのですぐ来て!」ボクは車を飛ばして実家に駆けつけた。到着後、母と共に父をクルマに乗せて八事日赤病院に連れて行った。

診察を受けた直後、倒れた原因ははっきりしなかった。待合室でお待ち下さいと言われて30分後。先生から「こちらへどうぞ」と言われた。先生が切り出した。昨年白内障の手術をされましたよね?ええ、そうです。父は2006年の秋、急激に視力が落ちた事で運転に支障をきたす様になり、白内障の手術を受けていた。それが何か?実はその時の検査結果と比較したのですが、血液の量が半分になっています。エッ?最初は意味が分からなかった。母が父に尋ねた。お父さん、何か隠している事があるのならの言わなきゃダメでしょ。父は即座に答えた。いや、何も無い。先生は黙って診療を始めた。数分後、やはり少し下血がある様です。今から予約しますので明日検査を受けて下さい。その日はそれで終わって自宅に帰った。実家に到着して車から降りた父は大きくよろめいた。明らかに自力で立っていられない感じだった。父は倒れる以前に自覚症状が全く無かった様なので、もしかしたら単なる貧血か?とも思っていた。

翌日の朝、病院で検査を受けた結果は直ぐに判明した。胃がんだった。即入院。詳しい検査が行われた。ボクはその時、手術で治るだろうと軽く考えていた。入院数日後のある日、主治医から電話が入った。「詳しい検査結果が出ました。申し上げにくいですが肝臓に転移しています。この状態では手術も出来ません」突然の話で理解できなかった。そこで主治医に尋ねた。詳しく話を聞かせて頂けますかと。翌日、ボクは母に内緒で病院に出かけて主治医から直接話を聞いた。先生は開口一番こう言った。胃がんの末期です。今後は治療方法についてご相談しましょう。何が何だか分からずの状態。ボクは明らかに混乱していた。数日後、父に面会の為病院を訪れて待合室にいた時の事。母が突然尋ねてきた。先生からの昨日の電話何だったの?ボクは即座に答えられなかった。正確には答えたくなかった。そこで母には今は言いたく無い!と言ってしまった。母はこの一言で全てを理解した様だった。

あぁ、これでもうお父さんとお別れやわ。
母の言葉に心が折れた。

奇しくも父が倒れた一年前の春、母もがんになり、同じ病院に入院して手術を受けていた。母は術後驚異的な回復力ですぐに退院してくれたが、まさか親が立て続けにがんになるなど思ってもいなかった。その日の夜、ボクは母に全てを話した。そして翌日母と共に再度主治医を訪ねて見解を聞いた。診断書には余命数週間~数ヶ月と書かれていた。余命数週間~数ヶ月。受け入れ難い表現だった。主治医と相談した結果、その場で2つだけ決めた。前向きに治療を受けさせる為、父には病名を伏せる事。手術不可の為、抗癌剤のみとする事。相談後、待合室で母が呟いた。あぁ、これでもうお父さんとお別れやわ。努めて冷静に振る舞う母の言葉にボクの心は折れた。入院して10日ほど経っていたが日に日に体力が落ちていく父を見るのは耐えられなかった。

4月初旬、面会に尋ねたある日、父がボクに言った。章、オレはもう車を運転することも無いだろう。クルマは処分してくれ。金額は任せる。少しでもお金になれば、全て母さんに渡して欲しい。まさかとは思ったが自分の死期が近いことを察しているかの様だった。その後、治療方法について主治医から説明を聴いた事を父に話した。父さん、体力が落ちているから手術はもう少し後に回そうと言われたよ。父は明らかに疑念を抱いている様だった。「分かった。」
その日の午後、家に帰ったボクはクルマの買取業者に連絡をつけて引き取りを依頼した。数日して業者が引き取りにきた。ボクは道路端に立って父の車が視界から消えるまで見送った。今でも鮮明に覚えている。父の愛車の後ろ姿。まるで父自身が旅立って行くようで無性に寂しかった。

左から当時54歳の父、53歳の母、27歳の妻。みんな若かった。
結婚前の1989年、妻が実家に遊びに来た時のポラロイド写真。
現在のボクは当時の父の年齢を5歳超えている。
父の生前、最後に貰った年賀状。
左上には前年、母の入院手術時のお礼が手書きで記述されている。
この賀状は父直筆の形見として今もボクが大切に保管している。
父が最後に所有していたクラウンマジェスタ。
右隣には当時妹が乗っていたスクーターも写っている。
ボクが当時所有していたワインレッドマイカのカリーナED。このクルマの購入前、父からリアスポイラーを付けよと言われた記憶も残っている。ショールームに実車を見に行きボクにアドバイスをくれたのだろう。

人前で涙を見せない父からこぼれ落ちたひと筋の涙。
その時、ボクの心が大きく震えた。

父が亡くなる数日前の事。母をクルマに乗せて面会に出かけた、外は桜が満開だった。ボクは駐車場前の桜の木から一輪の花を紡いで病室に持って入った。父さん、桜が満開だよ。父は微笑み「そうか」と一言呟いた。ボクは父に、退院したらみんなで一緒に出掛けようと言った。父はありがとうな、と一言だけ言ってくれた。そんな事はもう不可能だと知っていながら口にするのは唯々虚しかった。その日の帰りの事。母が「お父さんまた来るね」と言うと父からひと筋の涙が頬を伝った。今まで人前で涙を見せた事が無い父の姿にボクは動揺した。母は父の涙をそっと拭きながら「お父さん、何泣いてるの」と笑って励ました。ボクは涙がこぼれ落ちるのを父に悟られない様に病室を出た。その数日後の朝、病院から電話が入った。容態が良く無いです。直ぐに来て下さい。ボクと母は直ぐに駆けつけた。時は4月の中旬。街が温かな風に包まれていた時期だった。桜の花びらが舞い散る日の午後、父は静かに逝ってしまった。ボクは最後まで父に何も声を掛けられなかった。父が亡くなった瞬間、崩れかけた母を抱きしめた。

父の思い出は数えきれず。1番の思い出は幼少期、東海道新幹線の開業直後。父が仕事で浜松に連れて行ってくれた時の事。ボクを新幹線に乗せてビュッフェで食事をさせてくれた。振動が大きく、コーヒーカップがカタカタと音を立てて動いていたことを今も覚えている。また、後に父から聞いた話では、ボクが大学受験に尽く失敗して東京に行く決意を固めた時、行かせたくないと懇願する母を父が説得したそうだ。母さん。心配するな。章は自分の居場所を探しに行きたいのだと。あいつは決してグレる様な息子では無い。気持ち良く送り出そう。東京で揉まれて何倍にも大きな人間になって帰ってくるだろうと言ったそうだ。

ボクが父の良いところを継いでいるのは正義感の強さと動物好きだろう。犬や猫はもちろん、ボクの飼っていたジリスも愛してくれた。こんな思い出もある。ある時、実家の庭に迷い込んだ猫を父が見つけた時があった。尻尾が切れて出血していた。クルマにでも引かれたのだろうか。骨が見えるぐらい酷かった。父は猫を抱き抱えボクに目配せした。2人で直ぐに近所の動物病院まで運んだ。対応した先生はすぐに手術しましょうと言ってくれた。手術後ネコの傷は順調に回復して数日間実家に居た。その時のネコはマロンと名付けられた。秋の気配を感じる時期だったのだろう。ウチの飼い猫では無いにも関わらず、そのまま見過ごすことのできないボクの家族。その後気がついたらマロンは居なくなったそうだ。後に父から聞いた話では、マロンがいなくなる時、振り返ってニャーと一声鳴いたらしい。あいつは最後にオレ達に挨拶をしていったと目を細めていた父が懐かしい。

父はまた大のクルマ好きだった。若い頃から何台も乗り継いだ最後のクルマはクラウンマジェスタだった。色はダークモーブマイカ。この色はボクが選んだものだ。3L、直列6気筒エンジン、めちゃくちゃ加速が良かった。軽く踏み込むだけで簡単に時速100キロを超えた。このクルマに両親を乗せて、京都や大阪まで何度か運転した事もある。日常では父が前を走り、ボクのクルマがその後をついていく。そんな時も度々あった。気が若く、大きなボディのクルマを華麗に操る父の姿をボクは少し誇らしげに見ていた。

父は昔から音楽好きだった。特に洋楽には若い頃から興味を抱いていたらしい。年寄りが好きな演歌など大嫌いだと豪語して見向きもしなかった。60歳にしてパソコンと電子ピアノを覚え、風呂上りに毎晩イーグルスの曲を演奏していた日々が懐かしく思い出される。ボクが偶に部屋を覗き、その音ハズレてるよと言うと恥ずかしそうに笑っていた父だった。晩年は仕事で苦悩する姿を度々見かけたが、ボクが相談事がある時は、どんなに忙しくても手を止めて、自分の事のように答えてくれた。ボクが父と会社を作って以降は、度々口論する事もあったが、晩年は親友の様な存在になっていた。

頑固で不器用な人だったが父は何よりも家族と人を愛した。ただ、一つだけ心残りなこともある。晩年ボクと話す時、「俺はもう役目が無い」と嘆いていた。そんな時、ボクは父に対していつもこう言った。「そんな事は無い!もう十分人の役に立ったから、これからは生きること自体が役目で良いんだよ。」ボクが励ましても父は納得していなかった。父の後ろ姿を見続けて来た自分が来年還暦を迎える。もし父がこの記事を見たら、ボクにどんな声をかけてくれるだろうか。きっとこう言うだろう。章、母さんを頼んだぞ。
父さん、ボクに素晴らしい人生を授けてくれてありがとう。
今年も桜の季節がやってきた。

洋楽を愛しイーグルスが好きだった父にこの曲を手向ける。
ありし日の元気な父の姿と、若き日の自分が重なる。
☆EAGLES「New Kid In Town」1976(2005LIVE)
(アルバム ホテル・カリフォルニア収録曲)
https://www.youtube.com/watch?v=1mJbk2CuQ0I

2020年10月6日FAMILY STORIES