こんなオチは受け入れられない。
日本中が喪失感に襲われた志村けんさんの死去。
こんな人はもう二度と現れないだろう。

2020年11月24日志村けんさん

☆4月1日生放送されたフジテレビの追悼番組

居て当たり前の人が突然居なくなる。これほど虚しいことは無い。

コメディアンの志村けんさんが3月29日に死去された事を受けて、先週から様々な追悼番組が放送されている。ボクは今、それらのビデオを見ながら、喪失感いっぱいでこの記事を書いている。卒直に言えば、志村さんの死は、「残念です」では済まされない事だ。志村さんは、ボクが少年時代から憧れの人だ。多くの人はドリフターズのメンバーとしての功績を称えるのだろうが、ボクは、8時だョ。全員集合!終了後の新しい笑いを作っていった喜劇職人の印象を持っている。テレビ番組で言えば、カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ、バカ殿様、志村けんのだいじょうぶだぁ、の3本だ。

☆2017年放送のだいじょうぶだぁスペシャルで全員集合したドリフターズ

8時だョ!全員集合に代表される、ドリフターズが目指した笑いは、予め用意されたシナリオに基づき、リハーサルを何度も繰り返して練り上げて行くスタイルであった。全国ネットで公開生放送。失敗が許されない世界の中でダントツの人気を誇った昭和のテレビ番組。全員集合は、時には50%を超える視聴率でオバケ番組と呼ばれ、1980年初頭までは安定した高視聴率を誇っていたが、ビートたけしや明石家さんまが出演するオレたちひょうきん族がスタートすると、全員集合の視聴率独占状態が徐々に崩れ始め、ひょうきん族の後塵を拝する事も度々起きる様になっていた。1983年になると、その傾向が顕著になり、ドリフのリーダー、いかりや長介は、番組プロデューサーに全員集合を止める意思を伝えた。それでも視聴率の低下に歯止めがかからず、1985年の9月、全員集合は遂に最終回となる。通算16年、放送回数803回でフィナーレを迎えた。

☆カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ

守りつつも攻める。笑いの可能性を追求して、
新しいモノに挑戦し続けた志村さん。

1986年には、全員集合の後番組として、カトちゃんケンちゃんごきげんテレビが制作された。この番組は全員集合で最も人気があった加藤茶と志村けんの2枚看板を打ち出したバラエティ番組としてスタート。当時の加藤さんと志村さんは、全員集合という怪物番組を超える番組を作ろうと相当意気込んでいたと思う。全員集合の良さを残しながら新しい笑いを作るという難しさ。加藤さん、志村さんと言えども容易ではなかったはずだ。この課題は後の冠番組、志村けんのだいじょうぶだぁで実を結ぶ。

☆だいじょうぶだぁ出演時の石野陽子

だいじょうぶだぁは、ボクと妻の最も思い出深い番組

志村けんのだいじょうぶだぁは1987年の11月に放送開始。ラッツ・アンド・スターの田代まさしと桑野信義をサブキャストに迎え、それまで、コントの経験が殆ど無かった石野陽子(現いしのようこ)と松本典子をレギュラーメンバーに据えて始まった。この番組は、ボクと妻が東京で一緒に暮らし始めた頃にスタートした事もあり、志村さんの代表作として、特に印象が強い。贅沢に作り込まれた、実物の雰囲気たっぷりのセットや小道具に加えて、アドリブや楽屋オチを加えた志村さんの番組作りは、レギュラーキャストすら笑いを堪えきれず、NGを多発した。時代劇コントで酒を飲むシーンは、本物の日本酒を使って度々共演者を驚かせた。番組では、そういった部分もノーカットで放送された事で、視聴者の共感を呼び、高い視聴率をキープした。スピーディな展開に加えて、とことんツッコミ倒す志村さんのテクニックは、この番組で確立されたと言って良い。志村さんは、同時に新しい試みも行っていた。無音劇。宗次郎のオカリナのBGMだけで、台詞が一切ないドラマ仕立てのコント。殆どが人生の悲哀を描いた悲しい結末になるものだった。笑いの対極にある悲哀。当時の自分も涙をこらえながら見ていた記憶がある。当時の志村さんは、あらゆる可能性を考えて試行錯誤していたのだと思う。

☆デシッと返事だけは良いが失敗ばかり繰り返すデシ男
☆実在のモデルが存在したと話題になったひとみ婆さん
☆今や知らない人はいない超人気キャラの変なおじさん
☆柄本明と名コンビだった芸者のコント

番組で志村さんが演じた個性的なキャラクターは数知れず。そのどれもがたちまち人気者になっていった。同番組は、後に不定期な放送になったが、最近まで継続されていた番組で、志村さんの笑い作りにかける情熱が伺えた。不定期な放送になった一番の原因は予算的な背景ではないかと思われる。これについては一時期志村さん自身も嘆いていた事があった。最近はクイズ番組が多すぎる。予算の関係でしっかりしたセットを作れない時代になったと。

☆現在のいしのようこ

同番組のレギュラー出演者の中では、石野陽子の印象が最も強い。アイドル歌手としてデビューした石野さんは、志村さんが直々に説得して出演させたと言う。当時の石野さんは、3ヶ月ならという事で出演を了承したそうである。これについては、戸惑いと共に、番組の展開に、自分がついていけないのではないかという不安があったと後に語っている。ところが、彼女は番組開始直後から、志村さんと息の合った夫婦役を演じて、時には本物の夫婦以上に夫婦らしく感じられる場面が随所に見受けられた。当時巷のウワサになっていたのが、志村さんと石野さんは本物の恋人同志ではないのか?だった。見ていた視聴者の誰もがそう思っていたはずだ。コントで無茶振りする志村さんに対して真正面から受け止めた演技力を発揮した事で高視聴率となり、番組の名物コーナーに成長した。結果、石野さんは同番組で5年間、志村さんを支え続ける大役を立派に果たした。志村さんが人を見る目の正しさに加えて、石野さんの努力も並大抵のものでは無かっただろう。大ベテランの志村さんの胸に飛び込んでコメディエンヌの才能を見事に開花させた。彼女が同番組に寄与した功績は極めて大きい。

だいじょうぶだぁは、志村さんの企画力がピークに達していた時期の番組で、志村さんの笑い作りへの情熱と愛が溢れている番組だった。4月1日放送の志村さんの追悼番組に出演されたいしのさんは現在52歳、最近は、テレビで拝見する機会もほとんど無くなったが、美しい容姿は昔と変わっていなかった事も嬉しかった。番組の中でいしのさんも言われていたが、志村さんの死は未だに実感が無く受け止められないと。彼女にとっても志村さんは、笑いの世界に居るのが当たり前の空気の様な存在になっていたのだろう。演者という枠を超えて企画もこなし、才能を存分に発揮し続けた志村さんは70年の人生に幕を下ろした。日本の芸能界で笑いを作り続けた志村さんの功績は計り知れない。志村さんが作る笑いの根底には大きな情熱と豊かな愛情があった。二度とこのような人は出てこないだろう。

2004年にいかりや長介さんが亡くなった時、ドリフターズが全員揃うことはもう無いのかと落胆していた。いかりやさんの葬儀に出席した志村さんは、いかりやさんの笑いを継承していくと語っていたのは記憶に新しい。父の生前、家族揃って全員集合を見ながら、大きな笑い声が家中に響いていた昭和の時代。その志村さんまでも亡くなったことで、誰もが大切にしていた家族の幸せな思い出が日本中から消えてしまった様な寂しい気がする。昨今の志村さんは、コントは勿論の事、ドラマでも活躍され、今年は主演映画も制作される予定だった。観たかった。
志村さん、沢山の愛と笑いと、素敵な思い出を与えてくれてありがとう。
あなたの事は絶対に忘れません。長い間お疲れ様でした。

☆志村けんのだいじょうぶだぁ。石野陽子との夫婦コント
https://www.youtube.com/watch?v=l77_6kgMkbQ

☆志村けんのだいじょうぶだぁ。松本典子、石野陽子の出演最終回。(1992年)
番組のエンディングで、志村さんが松本典子と石野陽子の肩を抱くシーンは、
志村さんの優しさが溢れていて、涙無くしては見られない。
https://www.youtube.com/watch?v=cKfDOLuzflQ

2020年11月24日志村けんさん