旅立ちの春。
東京での一人暮らしは
自由と不自由が同居していた。 
8年間の居場所探しの旅  

2020年10月6日TEENAGE MEMORIES

☆高校1年生の春休み、同級生と旅した倉敷にて。

いつまで続くのだろう。新型コロナウィルスの恐怖。
普通なら、 心ときめく春だというのに今年は様相が大きく異なる。新型コロナウィルスの恐怖で外に出られない。エレベーターのボタンや階段の手すりも安易に触れることを躊躇ってしまう。卒業式や入学式も参加できなかった人が大勢いると聞く。働けない。仕事が無い。世界中が一大事なのに、相変わらず建前論に終始する日本の政府はあまりにも不甲斐ない。呑気な総理大臣と屁っ放り腰の財務大臣。こんな人達が国を動かしているとはあまりにも情けない。唯ここに来て、公明党から一律10万円の給付案が提起されたのは幸いだ。連立与党でなければ一蹴されていただろうと考えると、この国の政治家は、本当に国民のことを考えているのかと言いたくなる。ましてや、緊急事態宣言が出ているにも関わらず、キャバクラに通っていた野党のアホ議員など、さっさとクビにして、歳費は返還させ、マスクでも買って配った方がよっぽど他人の役に立つと言うものだろう。

この歳になると人生を振り返って考えたくなる時もある。
ただ耐えて下さいと言うだけでは、多くの人の生活が苦しくなるのは目に見えている。オリンピックの開催で浮かれていた日本。足をすくわれたカタチだ。こんな状態がいつまで続くのだろうと考えると益々気が滅入る。私事で恐縮だが、ボクは来年還暦を迎える。今後のブログテーマは、人生を振り返って思いつくままになるのをご容赦願いたい。今回は高校卒業後のボクが、今の仕事を選択した頃の想いについて記述してみたい。19〜20歳頃の苦悩と試練の日々の話だ。

☆デザイン専門学校入学時の頃。
近所の美容室でカットしてもらった時、
美容師のお姉さんから、歌手で誰が好き?と言われて
ジュリーと答えたらこんな髪型にされた覚えがある。
☆東京生活一年目の夏、帰省した実家の庭で、
ポメラニアンの愛犬ノンちゃんとボク。

浪人して受験したにも関わらず、志望大学を尽く蹴られ、生きる気力すら失っていた。
振り返ればたいした勉強もせず、そこその学力で今まで生きて来たが、高校を卒業して、東京デザイナー学院(以下東デと記す)入学後はひたすら真面目に生活してきた思いがある。東デの本校舎はお茶の水にあり、周囲に分校舎が点在していた。お茶の水と言えば学生の街だ。当時の駅前はレコードショップや飲食店、喫茶店等が数多くあった。ボクが東デに入学したのは1980年。1浪して受験したにも関わらず、志望大学をことごとく蹴られ、生きる気力すら失っていた。予備校仲間や同級生達は次々に自分の生きる道を見つけていた。毎日悶々と悩み、自分に何がやりたいのかを考えていた。考えた末の答えは、何も無いだった。これが本音。高校を卒業したばかりの19歳の少年がやりたい事など分かるわけ無いだろと思っていた。

自分の可能性が一番広がる東京で、生きる場所をみつける事から始めようと考えた。
そもそも最初から答えを見つけていれば、もう少し目的意識を持って大学入試に臨んだと思う。ならばこの際開き直って、自分の可能性が一番広がる東京で、生きる場所をみつける事から始めようと考えた。しかしながら、やりたい事が全く無いでは格好がつかない。親も納得しないだろうと思った。苦肉の策として思いついたのはデザイナーになろうだった。今だから言えるが、これは後付けの考えだ。幸いにも、ボクは義務教育時代から、美術の成績だけは群を抜いていたので、これなら親も認めざるを得ないだろうと考えていた。東京でグラフィックデザインでも勉強してやるかの心境だった。そう決めた瞬間から、今までの呪縛から解放された気がした。思い立ったら吉日とその日から東京生活の計画を練った。専門学校の選択。両親の説得。住まい探し。クリアするハードルは結構高いと思った。自分が怖気付かないうちに実行しようと思い、まずは新宿のビジネスホテルに宿を取った。親に誓った猶予は3日間。めぼしいデザイン学校の入学願書を手に入れ、アパートの下見までして名古屋に帰った。家に到着後、両親に詳しく説明した。父親は終始穏やかな表情だったが、母親は寂しそうな表情だった気がする。

名古屋の街がボクの背中を押してくれた。
3月末、両親に感謝と別れを告げて新幹線に乗った。車窓に流れる名古屋の街を見て、もう一度ここに帰る事ができるのか?と思っていた自分がいた。名古屋駅出発後の車内アナウンスを聞きながら少しだけ後悔の念も感じていた。じわっと涙も出た。去りゆく名古屋の景色を目で追いながら弱気な自分を自分で戒めた。今は感傷に浸っている場合では無い。勇気を出して前に進め。名古屋の街がボクの背中を押してくれた。

☆東武東上線北池袋駅。

貧相な駅の朽ちたボロアパートで始まった一人暮らし。
東京の住まいは、東武東上線の北池袋と決めていた。池袋の次の駅。各停しか停車しない貧相な駅だったが東デの分校舎があった水道橋や桜上水に行きやすいロケーションだったので即決した。一人暮らしを決めた時、簡単ながら将来の青写真は描いていた。まずは専門学校を卒業。都内で就職。そこから先は考えても仕方ないだろうと思っていた。元よりデザイナーになれるとは限らない。もしかしたら卒業すらできないかもしれないと不安を抱えてていた。全てがマイナス思考になっていた当時の自分。

☆東京デザイナー学院本校

毎日欠かさず授業に出て、課題制作に没頭していた日々。
東デは2年制の専門学校。当時はまだ週休2日制では無い時代。授業では毎日課題が出され、翌週の同日に提出。これが結構キツイ。深夜まで課題制作に時間をかけないと終わらない。従って入学後、夏頃までに半数が辞める。年末には更に半分に。年度末の試験に合格して卒業できるのはそのまた半分。入学時の1/10程しか卒業できないのが現実だ。ボクは卒業後、東京で就職、後に名古屋に戻ると言う人生設計を描いていたので、それだけを考えて生活していた。従ってまずは体力優先。食費は削らずにしっかり食べた。生活が困窮するのは承知の上で、アルバイトも最小限度に抑えた。毎日欠かさず授業に出て課題制作に没頭していた日々だった。唯一のアルバイトは、プラモデル月刊誌のホビージャパンが運営する模型店のポストホビー。代々木駅前に店舗があった。店のレジを任され、海外のSFプラモ用ポスター制作も任されていた。仕事の関係で、月刊誌の編集部にも出入りしていた。ここでは高校卒業後、初めて付き合った女性と知り合った。化粧っ気の無い髪の長い人だった。クリスマスの夜に原宿でご飯を食べた思い出は今も鮮明に残っている。SFプラモ用ポスターの制作当時、ボクの噂を聞いたのか、ホビージャパン編集部から仕事ぶりを見に来た人がいた。現在、デアゴスティーニジャパンの、サンダーバードコレクションシリーズの監修を手がけるプロモデラーの柿沼秀樹さん。ボクの描いたポスターを見て一言。「ほ〜っ。キミが中川君?」当時は、この人がここまで有名になるとは思ってもいなかった。

☆初年度デザイン概論テスト解答用紙

その日から周囲がボクを見る目が変わった。
入学初年度末に行われたデザイン概論のテスト、論文だった。デザイン概論は先生の話し方が上手で熱心に受講していた覚えがある。答案返却日の授業だった。授業開始早々、回答用紙を前の席からから順番に返却しますと説明があった。クラス全員に点数がバレバレになる返却方法だ。ボクは普段から最後尾の席に座っていた。最前列から回答用紙が回って来る。高校のテスト以来のドキドキ感だった。回答用紙がボクの直前まで回ってきた時、前の席の女生徒が振り向きボクの顔を見て笑った。彼女から回答用紙を受け取った瞬間、不安は安堵に変わった。予想もしていない100点だった。自慢をしているのでは無い。来年還暦を迎える初老のボクにも、夢中になって授業を聞いていた時があったのだ。100点は後にも先にもこれっきり。将来に悲観して、自分の居場所を求めていたボクが、初めて胸を張ることができた日だった。

当時から分析と戦略に長けていた様に思う
今だから言える事だが、100点は偶然で取れたものでは無い。取りに行ったのだ。どの様に記述すれば高得点が取れるか、時間ギリギリまで使って回答した。授業中の先生の言葉一つ一つを思い出し丁寧に論文を組み立てた。ボクは当時から分析と戦略に長けていた様に思う。但し、今の自分が読むと満点の回答とは言えない。まず言い回しがくどい。言葉の使い方を間違えている部分も多々見受けられる。これで良く100点を頂けたはと思うが、それだけ現在の自分の文章力が上達しているのだろうと解釈している。この自信は専門学校卒業後、就職活動でも威力を発揮し、最初に面接を受けたデザイン会社にも即採用となった。

ガラス窓に打ち付ける雨音だけが聴こえていた自分は心まで冷え切っていた。
一人暮らしを始めた時はお金に余裕が無く洗濯機すら買えなかった。洗濯は近所のコインランドリーを利用していた。入学後9ヶ月が経過した夜の事。寒さで身震いする様な日だった。外は雨。空腹で課題制作も溜まっており、洗濯は翌日にしようかとも思っていた。そんな時は、いつもビートルズのレコードを大きな音で聴いて自分を奮い立たせた。気を取り直して厚手のセーターを着込み、部屋にあった数枚の100年玉をポケットに忍ばせてアパートの階段を降りた。あの寒い夜の日は今も鮮明に覚えている。真夜中、誰もいないコインランドリー。ガラス窓に打ち付ける雨音だけが聴こえていた自分は心まで冷え切っていたのだろう。寂しさと虚しさに明け暮れた日々。行き交う人のすべてが幸せに見えた。故郷を離れて1年。踏ん張っていた自分と、負けそうな自分。初めての一人暮らしは、自由と不自由が同居していたが、これらの試練が今の強い自分を作ってきたのだろう。

母の様な名古屋、父の様な東京、二つの街がボクを育ててくれた。
東京を離れて今年で32年になるが、デザイン学校時代の友人とは交友関係が全て切れている。言うまでも無く、ほとんどが挫折して途中で辞めたからだ。彼らが今何をしているのかを思うと少し複雑な気持ちになる。あの広い東京の街で巡り合った友人達は奇跡と言えるだろう。彼らが今も元気なら嬉しい。母の様な名古屋、父の様な東京。
二つの街がボクを育ててくれた。
どちらもボクの大好きな街だ。

☆都内のデザイン事務所に入社して、数社の顧客を任されていた24歳の頃。

☆Wanderlust/Paul McCartneyアルバムTug of War収録曲(1982)
就職が決まった日の帰り、秋葉原でこのLPを購入した。
自分を社会に送り出してくれる様に感じていた曲。

https://www.youtube.com/watch?v=XssYovzh3O4&list=PLB8F8625D6789B6B3&index=7

2020年10月6日TEENAGE MEMORIES