JR五反田駅山手線ホーム。 立ち食いそばで始まった 東京時代の食生活。 2020年10月6日TOKYO LIFE STORY
一昨年高血圧で倒れて以来、食生活を抜本的に見直した。野菜の量を大幅に増やし、糖質の摂取を大幅に削減した。病院で指示されたご飯の量は140グラム。これを絶対に超えない様にしている。思えば倒れるまでは好き放題食べていた。肉中心の食生活は東京で一人暮らしを始めてからずっと変わらずだった。1980年に上京、最初に食べたモノは、五反田駅、山の手線ホームの立ち食いそばだった。コロッケを一つ載せてもらった。毎日のお昼はアパート近所の小さな飲食店の定食か駅前にあったお弁当屋さんの弁当だった、夜は自炊して、スーパーやコンビニで買う惣菜で腹を満たしていた。当時の東京はあちこちにファーストフード店が乱立していた時代。マックやロッテリアは勿論のこと、ウエンディーズ、森永LOVE、明治サンテオレと言った、聞き慣れない名前のファーストフード店もあった。さらに驚いたのは、JRの飯田橋駅。ホームの階段下にはロッテリアの店舗もあった。東京は凄い街だと感じていた日々だった。
東京で最初に就職したデザイン事務所は新宿区の雑居マンション、初任給はたったの80,000円。残業代も夜食も一切出無かった。今の時代なら到底生活できないだろう。昼食はビル内の喫茶店で毎日ランチを食べていた。気に入らないメニューの時は焼きそばにご飯と味噌汁がついた定食を注文した。これに目玉焼きをのせてもらった。これが他の社員にも飛び火して、いつしかアキラスペシャルと呼ばれる様になった。この店には数年間通ったが、後にマスターがバイク事故で亡くなり閉店してしまった。
北池袋の朽ちたアパートでスタートした一人暮らしは、まともな食生活では無かった。何よりもお金が無かった。贅沢は言っていられない以上、お腹が満たされればそれで十分だった。偶に実家から牛肉やソーセージ、ハムの缶詰めがいっぱい詰まった段ボールが届いた時は唯々親に感謝した。実家にいた時を思い出して、一人寂しく、泣きながら食事をした時もあった。
就職して1年後、好きな人ができた。妻である。後に一緒に暮らす様になり、中板橋の新築マンションに移った。中板橋は、近くに中型のスーパーがあり食事処も豊富にあった。この頃になるとボクは中堅のデザイナーとなり、給料も大幅に上がった事もあり生活にも余裕がで始めていた。
妻と通った思い出深い店は
大山駅前のキッチン洋包丁。
中板橋近辺の食事処で最も印象深いのは、東武東上線大山駅前にある洋包丁。この店はテレビ東京の「孤独のグルメ」でも取り上げられた事もある店だ。安くて量が多い事で評判も良く、昼時はいつ訪れても盛況だった。メニューも変わっていた。ポークのカラシ焼き、スタミナ丼、最初はコレ何ですか?状態だった。
ポークのカラシ焼きとは、胡椒を大量に振った焼肉。スタミナ丼は豚肉と野菜炒めの上に生卵を載せたものだった。そして洋食屋定番のハンバーグ定食。来店客の殆どは、この3品のいずれかを選ぶ。好みで白身魚フライや、クリームコロッケのおかずを一品プラスできる事も人気だった。定食は、メイン料理の他に大盛りのご飯と味噌汁が付く。店内はカウンター席だけのうなぎの寝床状態。10人も座れば満席になってしまう。この店は、メイン料理の皿にあらかじめサラダが盛り付けられていた事が印象的だった。サラダは、生野菜にカレー風味のパスタが添えられた物。コレがご飯によく合う。妻と一緒に暮らし始めて以降、休日にはよく通った。妻は決まってハンバーグ。最初はフライパンで焼き、後にオーブンに入れて仕上げていたのを見ていた。この店で、妻がハンバーグ以外の料理を注文した事を見たことが無い。それほど気に入っていたのだろう。東京での生活はこの頃が一番充実した時期だった。クライアントから認められ、デザインを極めたいと、八面六臂の活躍だった。毎月の給料日を迎えると、週末には妻と新宿に出掛けてご飯を食べていた。レストランで食べたステーキ、その帰りに池袋駅前の屋台で食べたラーメン、どちらも忘れられない思い出だ。
妻と結婚して30年、歳を重ねて食が細くなったのか以前ほど食べられなくなった。若々しく生きたい、おしゃれも楽しみたい。現在の体型を維持したいという自制心が働いているのかもしれない。最近ではスーパースキニージーンズを履く様になり、髪も昔の様に伸ばし始めた。食事の食べ方も変化した。最初は野菜、次に肉や魚類とごはん、最後にフルーツの順番になっている。間食は一切しない。ボクの様な自由奔放な性格は好き勝手に生活していたらあっという間に亡くなっていたかもしれない。父も生前、糖尿病になりかけ、母が食事を改善させて治った経緯がある。親から頂いた命だ。日々新しい思い出を作りながら、自分らしく、毎日精一杯生きたいと思う。
☆This Is Love/George Harrison(1988アルバムCloud 9収録曲)
妻と結婚する意思を固めて東京生活最後の思い出に旅した伊豆旅行、
仕事仲間と最後に旅した日を思い出す曲。ビデオクリップの様な青い空と海だった。
ビデオクリップに映るカメラを持った女性はジョージハリスンの妻オリヴィア。
ジョージハリスンは2001年に肺がんで逝去している。
https://www.youtube.com/watch?v=wqWkBk2ixs8
2020年10月6日TOKYO LIFE STORY
2020年10月6日TOKYO LIFE STORY
一昨年高血圧で倒れて以来、食生活を抜本的に見直した。野菜の量を大幅に増やし、糖質の摂取を大幅に削減した。病院で指示されたご飯の量は140グラム。これを絶対に超えない様にしている。思えば倒れるまでは好き放題食べていた。肉中心の食生活は東京で一人暮らしを始めてからずっと変わらずだった。1980年に上京、最初に食べたモノは、五反田駅、山の手線ホームの立ち食いそばだった。コロッケを一つ載せてもらった。毎日のお昼はアパート近所の小さな飲食店の定食か駅前にあったお弁当屋さんの弁当だった、夜は自炊して、スーパーやコンビニで買う惣菜で腹を満たしていた。当時の東京はあちこちにファーストフード店が乱立していた時代。マックやロッテリアは勿論のこと、ウエンディーズ、森永LOVE、明治サンテオレと言った、聞き慣れない名前のファーストフード店もあった。さらに驚いたのは、JRの飯田橋駅。ホームの階段下にはロッテリアの店舗もあった。東京は凄い街だと感じていた日々だった。
東京で最初に就職したデザイン事務所は新宿区の雑居マンション、初任給はたったの80,000円。残業代も夜食も一切出無かった。今の時代なら到底生活できないだろう。昼食はビル内の喫茶店で毎日ランチを食べていた。気に入らないメニューの時は焼きそばにご飯と味噌汁がついた定食を注文した。これに目玉焼きをのせてもらった。これが他の社員にも飛び火して、いつしかアキラスペシャルと呼ばれる様になった。この店には数年間通ったが、後にマスターがバイク事故で亡くなり閉店してしまった。
北池袋の朽ちたアパートでスタートした一人暮らしは、まともな食生活では無かった。何よりもお金が無かった。贅沢は言っていられない以上、お腹が満たされればそれで十分だった。偶に実家から牛肉やソーセージ、ハムの缶詰めがいっぱい詰まった段ボールが届いた時は唯々親に感謝した。実家にいた時を思い出して、一人寂しく、泣きながら食事をした時もあった。
就職して1年後、好きな人ができた。妻である。後に一緒に暮らす様になり、中板橋の新築マンションに移った。中板橋は、近くに中型のスーパーがあり食事処も豊富にあった。この頃になるとボクは中堅のデザイナーとなり、給料も大幅に上がった事もあり生活にも余裕がで始めていた。
妻と通った思い出深い店は
大山駅前のキッチン洋包丁。
中板橋近辺の食事処で最も印象深いのは、東武東上線大山駅前にある洋包丁。この店はテレビ東京の「孤独のグルメ」でも取り上げられた事もある店だ。安くて量が多い事で評判も良く、昼時はいつ訪れても盛況だった。メニューも変わっていた。ポークのカラシ焼き、スタミナ丼、最初はコレ何ですか?状態だった。
ポークのカラシ焼きとは、胡椒を大量に振った焼肉。スタミナ丼は豚肉と野菜炒めの上に生卵を載せたものだった。そして洋食屋定番のハンバーグ定食。来店客の殆どは、この3品のいずれかを選ぶ。好みで白身魚フライや、クリームコロッケのおかずを一品プラスできる事も人気だった。定食は、メイン料理の他に大盛りのご飯と味噌汁が付く。店内はカウンター席だけのうなぎの寝床状態。10人も座れば満席になってしまう。この店は、メイン料理の皿にあらかじめサラダが盛り付けられていた事が印象的だった。サラダは、生野菜にカレー風味のパスタが添えられた物。コレがご飯によく合う。妻と一緒に暮らし始めて以降、休日にはよく通った。妻は決まってハンバーグ。最初はフライパンで焼き、後にオーブンに入れて仕上げていたのを見ていた。この店で、妻がハンバーグ以外の料理を注文した事を見たことが無い。それほど気に入っていたのだろう。東京での生活はこの頃が一番充実した時期だった。クライアントから認められ、デザインを極めたいと、八面六臂の活躍だった。毎月の給料日を迎えると、週末には妻と新宿に出掛けてご飯を食べていた。レストランで食べたステーキ、その帰りに池袋駅前の屋台で食べたラーメン、どちらも忘れられない思い出だ。
妻と結婚して30年、歳を重ねて食が細くなったのか以前ほど食べられなくなった。若々しく生きたい、おしゃれも楽しみたい。現在の体型を維持したいという自制心が働いているのかもしれない。最近ではスーパースキニージーンズを履く様になり、髪も昔の様に伸ばし始めた。食事の食べ方も変化した。最初は野菜、次に肉や魚類とごはん、最後にフルーツの順番になっている。間食は一切しない。ボクの様な自由奔放な性格は好き勝手に生活していたらあっという間に亡くなっていたかもしれない。父も生前、糖尿病になりかけ、母が食事を改善させて治った経緯がある。親から頂いた命だ。日々新しい思い出を作りながら、自分らしく、毎日精一杯生きたいと思う。
☆This Is Love/George Harrison(1988アルバムCloud 9収録曲)
妻と結婚する意思を固めて東京生活最後の思い出に旅した伊豆旅行、
仕事仲間と最後に旅した日を思い出す曲。ビデオクリップの様な青い空と海だった。
ビデオクリップに映るカメラを持った女性はジョージハリスンの妻オリヴィア。
ジョージハリスンは2001年に肺がんで逝去している。
https://www.youtube.com/watch?v=wqWkBk2ixs8
2020年10月6日TOKYO LIFE STORY