SMILE GUY FOREVERFather’s Day ~父の日に寄せて~
2020年10月6日FAMILY STORIES
明日は父の日だが、私の父は13年前に亡くなっている。親を亡くした事は、自分がどこの誰かを証明できる人を一人失ったのと同じ事だ。悩んだ時や判断に迷った時など、それを尋ねる事もできないのだ。
生前の父からよく聞かされた話は決まって戦争体験だった。父は子供時代、父の父、(私の祖父)と共に故郷の四日市に疎開していた。終戦を迎えて名古屋に戻る際、近鉄電車の中で1組の見知らぬ親子を見かけた。子供はお腹をすかせていたのか大声で泣いていたと言う。その時、祖父と父は親子の元に寄り添い、握り飯を一つ差し出したと言う。子供は泣き止み、おにぎりをほおばった。電車が近鉄名古屋駅に到着した時に見た名古屋の街は悲惨だったらしい。辺り一面焼け野原、名古屋城も焼失した。親子は祖父と父にお礼を言って人混みに消えて行ったと言う。戦争は悲惨なだけで何も残らないと語っていた父。その後一生を名古屋で過ごした父は、誰よりも名古屋を愛し、争い事を嫌っていた様に思う。
私が少年時代、父が仕事で使っていた一冊のノートを見た事がある。当時は商売が行き詰まりもがいていたのだろう。ノートには仕事のアイディアが細かく書き込まれていた。それを見てなぜか涙が出た。言葉や表情には一切出さない父だったが、家族を養う為にこれほどまで悩んでいるのかと思うと寂しくもあり、自分が何もできない事を悔しくも思った。商売の苦悩は誰にでもあるものだが、それを乗り越えようと必死だった父。そんな真面目な父の後ろ姿を見て私は育った。今の自分が苦しい時には当時の父の姿を思い浮かべる。こんな時、父ならばどうしただろう?そう思うと父がまだ生きてくれている様な穏やかな気分になれるから不思議だ。
今思えば、父は私にスポーツ好きな男らしい大人になって欲しかったのかもしれない。ところが私はどちらかと言えば女々しい顔立ちでスポーツ好きでも無かった。20代を過ごした東京の一人暮らしでは、度々女性に間違えられて声をかけられた事もある。男は男らしくと言う父の考えに反発する思いもあり、在学時からビートルズに夢中になり、高校卒業後は髪も長く伸ばしていた。今では、それも自分の魅力の一つなのかもと開き直っている。頑固な父だったが、私が県立高校に入学した時には、お祝いにベースギターをプレゼントしてくれた事には驚いた。私が大ファンのポール・マッカートニーが使っていたリッケンバッカータイプのブラックモデル。このベースで高校の友人や東京時代の仕事仲間達とバンドを組み、数々のビートルズナンバーを演奏したのも遠い日の思い出になってしまった。
私は父が経営していた工作機械販売業を継承せず、グラフィックデザインの道に進んだので、名古屋に戻る際には何か別の形で親子が共に活躍できる様な事業形態を取れれば良いなと考えていた。結婚後、名古屋で3年間デザイナーとして働いた後にそのチャンスは訪れた。1993年7月、自分で設立手続きを行ない、父を取締役に据えた会社、アムトレックを作った。父を車に乗せて公証人役場に行った時の事は今も鮮明に記憶している。その頃の私は、自分にできない事など何も無いの意気込みだった。会社が動き出して暫くの間は問題無く機能していたが、後に私が多忙になると、父と口論することが度々起きる様になった。息子の役に立ちたいと言う父と、自分ばかりが多忙になっていく事に耐えられなかった自分。当時の私にもっと広い心があれば、そんな衝突も回避できたのかもしれない。そんな時でも父は私に色々な言葉を授けてくれた。最も印象に残る話がある。当時血気盛んな私は誰彼構わずケンカをしていた。外注先のデザイン会社、長年支えてくれた仕事仲間、時にはお客様との打合せで当て付けの様な態度をとる時もあった。ある日、父が私にこう言った。章、アムトレックはお前が自分で作った会社だから自由にやって構わない、時にはケンカをしても良い。但し一つだけだけ言っておく。お前は相手をコーナーに追い込み、コテンパンに打ちのめすところがある。それはダメだ。ケンカをするなら、必ず相手の逃げ道を作ってやれ。それが上に立つ者の優しさというものだ。この言葉は今も私の心の中に息づいている。
2007年2月、父は病に倒れて入院、余命数ヶ月と診断され4月に亡くなった。享年73歳。いつの日か訪れるだろうと覚悟していたものの、現実にその日が来ると家族も混乱した。
父の遺体を病院から連れ帰る際には、自宅付近の思い出の場所を回ってもらった。父が出かけていたゴルフの練習場、愛猫を散歩に連れて行った公園、ここはお父さんが通っていたゴルフの練習場だよ。覚えてるよね?旅立つ父に届くように、涙ながらに父の耳元で話した事を昨日の事のように思い出す。幼少期、父と共に観戦したドラゴンズの試合は負けてばかりだったが、この年は53年ぶりの日本一に輝いた事を父に報告した事も懐かしい思い出だ。
父が亡くなった直後、父と長年親交があった親友が弔問に訪れた時の事。その方は、遺影を見るなり「ああ、中川君‥」と言って涙ぐみ絶句した。互いに息子が独立してほぼ毎週会っていた二人。父の突然の死は、その方にとっても堪えたのだろう。その時の父の親友の姿を見て、私も父が亡くなった事を実感した。父の死後、親交があった方から聞く話は決まってこうだ。息子さんですか。お父さんによく似ていますね。お父さんは誰にも親切で、いつもニコニコと微笑みながら話を聞いてくれました。あの優しい笑顔は今でも忘れられません。そしてお父さんは、あなたが自分で会社を作った事をいつも褒めていましたよ。
子供の頃、夏の休日に家族で出かけた思い出の場所は伊良湖である。母が作ったおにぎりと沢山のおかずが詰まったお弁当を持って出掛けた事は今も忘れられない。まだ車にクーラーが標準装備されていなかった時代、レモンイエローのマークllハードトップに家族を乗せて連れていってくれた父。観光名所の恋路ヶ浜にはメロン販売の小屋が軒を連ねていた。当時は毎年の様に出掛けており、店員のおばちゃん達が父の顔を覚えていたのも嬉しかった。まだ宅配便も無かった時代だが、大阪の親戚にも届けてあげたいと、沢山のメロンを買い込み、翌日、国鉄熱田駅まで荷物を送る手続きに出掛けた父。そんな優しい父が亡くなって13年経過している事に改めて時の流れを感じる。誠実な人柄故に、決して商売上手とは言え無かったが、周囲の人や家族を喜ばせる事が大好きだった父。そして何よりも優しい心を持つ大切さを教えてくれた。父が亡くなった時は、これ以上一滴の涙も出ないだろうと思うほど泣いたものだが、本記事の執筆において、父が元気だった頃の姿を思い浮かべると自然に涙が出てしまう。家族を養う為に懸命に働き、一人苦悩していた父の姿は今も私の瞼に焼き付いている。そして今も私の心の中で生きてくれている。父さん、楽しい家族の思い出と素晴らしい人生を与えてくれてありがとう。
☆ビューティフル・サンデー/ダニエル・ブーン(1976)
TBS系列で放映されていたおはよう720の名物企画「キャラバンII」の挿入歌。
リスボンから東京まで、カローラセダンとクラウンワゴンの2台で大陸横断する企画。
家族揃って朝食を食べながら見ていた思い出の番組である。
父も私もこの曲が大好きでシングル盤を購入。カセットテープに録音して父の車で出かける時の定番BGMだった。誰もが一度は耳にしたことがある曲だと思う。
田中星児が歌う日本語バージョンもあるが、私は断然オリジナルバージョンを推す。
https://www.youtube.com/watch?v=rXyrBw_m34E
2020年10月6日FAMILY STORIES