汗と熱気と
甘酸っぱい思い出。
私のアルバイト体験❶ 

2020年10月11日EXPERIENCE, TEENAGE MEMORIES

☆画像の金属棒を両腕に乗せて乾燥機まで運ぶ仕事だった。
蒸せ返る熱さと格闘した染色工場のアルバイト。

人生で最初に経験したアルバイトは1976年、高校1年の夏休み。同級生の要請で、友人のN君と共に彼の父親が経営する染色工場で働いた。工場は愛知県一宮市にあった。当時私が住んでいた実家は名古屋市熱田区にあったので、工場までの道のりは長かった。自宅から徒歩で国鉄熱田駅まで。熱田駅から一宮までは東海道線で移動。一宮駅で名鉄尾西線に乗り換えて奥町(おくちょう)駅まで移動した。太陽が照りつける中を工場まで歩くのは、高校生だった私でも相当に堪えた記憶がある。職場は服装も髪型も自由。仕事内容を一言で言うと、染色された生糸を乾燥機にかける事だった。生糸は金属製の棒材にかけられて染色される。染色が終わると、生糸が掛かったままの棒材を両腕に乗せて乾燥機までもっていく。一見簡単そうに思えるがこれが意外に難しい。染色された生糸は水分を吸って滅茶苦茶に重くなっているのだ。棒材を両腕に乗せて乾燥機まで運ぶのは予想以上に重くて辛かった。そして乾燥機の放熱で工場内は異常に暑かった。工場にはスポットクーラーさえも装備されていなかった。現代なら熱中症間違いなしだろう。疲れて足元がふらつくと、棒材に掛けた糸を床に落下させてしまう。仕事の要点はここだった。だから若くて体力のある学生アルバイトが必要だったのだろう。

☆赤いポストが良く似合う木造の名鉄奥町駅。
 この駅舎は2007年に解体されている。
☆高校2年の修学旅行で。左端が私、二人置いて帽子を手にした彼がN君。
 彼はサッカー部の選手で私とも仲が良かった。
彼女一人だけでは無く、幅広い交友関係を持ちたいと思っていたのかもしれない。

仕事は朝9時から始まり、夕方5時まで。終業時は両腕がパンパンになり、翌日に備える為にまっすぐ家に帰った。このアルバイトの唯一の楽しみはお昼ご飯だった。職場には社員食堂があり、無料で頂く事ができた。食堂のメニューは基本1種だったが、それが嫌いな人の為に、もう一種おかずが用意されていた。基本メニューが焼魚の時、私は決まって別メニューの卵焼きを選んでいた。当時はまだ肉中心の食生活だったので焼魚など食べられなかった。このアルバイトには、甘酸っぱい思い出もある。仕事を教えてくれた年上の女性から告白されて付き合ったのだ。当時の私は15歳、彼女は24歳だと記憶している。彼女とは休日に会ってご飯を食べたりボウリングに出かけた。ポロシャツにショートカットヘアの快活な女性だった。偶に彼女が実家に電話をかけてきた時はいつも驚いた。そんな時は決まって母親が取り次いだからだ。「随分ハスキーな声の女の子ねぇ」部屋のドアを閉めて、ドキドキしながら話した記憶がある。何よりも積極的な女性だったが、残念ながら、彼女との恋は長く続かなかった。私が重労働に耐えかねてアルバイトを辞めたからである。理由は他にもある。15歳の自分にとって、青春時代は始まったばかり。歳の離れた彼女との付き合いに、後ろめたい気持ちは一切なかったが、職場で冷やかされたりするのが少々苦痛だったのかもしれない。また、彼女一人では無く、もっと幅広い交友関係を持ちたいと思っていたのかもしれない。

女性問題で自主退学していた同級生。

私にアルバイトの要請をした同級生は、後に高校を自主退学した。当時の担任から聞いた話では、彼は女性問題を起こしていたらしい。そして彼が起こした不祥事をもみ消すために、彼の父親は顔見知りの議員を使って学校を脅したと聞いた。結果的に、この事が学校を怒らせる事になり、退学せざるを得なかったらしい。本人から直接聞いたわけではないので、真偽の程は分からない。私は高校1年生の時に彼と同じクラスになり、音楽の好みも同じだった事で意気投合した。初めて彼の部屋に遊びに来いと言われた時は、部屋の中にpearl(パール:楽器メーカー)の赤いドラムセットが置いてあり驚いた記憶がある。当時の価格で20万円ほどするものだった。同級生の家はお金持ちなのかな?と思った。彼は私にこう言った。「ドラム触ってみなよ」その場で叩かせてもらった。「中川、ドラム叩けるじゃないか!」「誰ができないと言った?」「お前よりも上手いぞ」こんなやりとりをしていた間柄だった。彼とはそれ以来仲のいい友人だったので、突然の退学は唯々驚いた。本記事を作る際にネット検索したところ、彼の自宅や、父親が経営していた工場も、跡形も無く消えていた。当時から44年が経過している。分かりきった事とはいえ、青春時代の思い出は幻のように切ない。

高校卒業後、1980年に上京して以降は小さなアルバイトを数種経験した。
★JR尾久駅付近の自転車製造工場

デザイン学校時代の友人に誘われて、自転車製造工場で働いたことがある。場所は国鉄尾久駅付近。工場の前は国鉄の車両基地で、様々な列車を見る事ができた。この工場で製造していた自転車は、スーパーなどで販売するノーブランド品だったと思う。この仕事を選んだ唯一の理由は、抜群に時給が良かった事。そして日払いも週払いも可能な事。当時、北池袋に住んでいた私にとって、交通の利便性が良かった事もその一つだった。ただ、予想以上に仕事がキツかった。仕事内容は簡単だった。4本のゴムタイヤが入っている段ボールを階下の倉庫に取りに行き、1階のラインまで運んで開封する仕事だった。これが重くて重くてひたすら辛いだけの仕事だった。友人とは、ある程度のお金が貯まればすぐ辞めようと相談していた。10日ほど働き、10万円ほどの報酬になると分かり、さっさと辞めてしまった。

★ウエディングドレス販売会場の設営(池袋サンシャインシティ)

当時の東京は仕事で溢れかえっており、アルバイトの募集もひっきりなしに行なわれていた。
この仕事は同じアパートに暮らす友人の誘いで応募した。1日限りの仕事だった。オープンしたばかりの池袋サンシャインシティ60で行われるウエディングドレス販売の為の会場設営の仕事だった。現場に着くと大まかなグループに分けられて簡単な指示が出された。大人数で一気に設営するので、短時間で終わるのだが、充足感が無く自分には不向きだと思っていた。数回応募して直ぐに辞めてしまった。

★大丸勝どき配送センターでのお中元商品の出荷

この仕事も友人から誘われての応募した。注文伝票を見て、商品在庫を倉庫に取りに行き、配送出荷する簡単な仕事だった。楽な仕事だったが、これも直ぐに辞めた。私は昔から、責任が重い仕事ほどやりがいがあると感じる古いタイプの人間なので、楽な仕事ほど長続きしなかった。自分は人一倍正義感が強く真面目な性格だが、生き方が下手なだけなのかもしれない。

★O1O1 丸井配送センターでの大型商品の出荷

丸井は、関東にお住まいの方ならご存知の商業施設である。1980年代に急成長した企業である。この仕事は新聞を見て応募した記憶がある。家具などの大型商品を店舗に配送する仕事だった。仕事の手順は、注文書に基づいて在庫確認に行き、在庫があれば大型台車に乗せてエレベーターで1階まで降りる。そして配送トラックが待機するゲートまで押して運ぶ仕事だった。この職場でも好きになった女性がいた。(私はこんなパターンが多い)運送会社の女性事務員である。まつ毛が長く、紺の制服が良く似合っていた。(少年時代から制服を着た女性に弱かった)この職場にも社員食堂があった。ある日何気なく相席になり、初めて彼女と会話を交わした最後に切り出した。今度一緒にご飯食べに行きませんか?彼女は微笑んで、その場でOKしてくれたのだが、その後、なぜか自分が仕事を辞めてしまい実現しなかった。若い頃の恋は熱しやすくて冷めやすい。常に不安定で揺れ動いていたのだろう。自分から誘っておきながら辞めてしまうなど言語道断。それからしばらくの間、自己嫌悪になった記憶もある。

☆開業当時のポストホビー代々木店
★最も印象深いポストホビーのアルバイト

ポストホビーは、月刊誌ホビージャパンの小売事業部門。プラモデルやボードゲーム、ミニカーなどを販売している専門店である。関東にお住まいの方ならご存知かも知れない。この店はデザイン学校時代の1年半ほどお世話になった記憶がある。私が当時働いていたのは代々木店である。代々木店はミニカーの在庫数が最も多く、マニアの間でも一目置かれていた店だった。店長は大柄でかなり太っていた事も記憶に新しい。ここで働いたきっかけは、友人とお店に行った時、店頭に貼られていた、アルバイト募集のポスターを見て応募した事である。自分の趣味と一致する輸入プラモデルやゲームに囲まれて働くことができる、願ったり叶ったりのような職場だった。ここなら長く続けられるのではないかと言う期待もあった。履歴書を持参して簡単な面接で即採用された。店長の期待に応えようと、出来る限りの時間を割いて仕事をした。突然言われる残業も全てこなして信頼に応えた。その甲斐あって、レジだけで無く、在庫管理や店内ポスターの制作も任されるようになっていった。デザイン学校時代のアルバイトは、この頃が最も楽しかった。

白いシャツにスリムなジーンズが良く似合う年上の女性に一目惚れした。

仕事に慣れた後は、ホビージャパン編集部にも出入りするようになり、ある女性社員に一目惚れした。白いシャツにスリムなブルージーンズが良く似合う、長い髪の女性だった。彼女は自分より5歳ほど年上だった。細かい事は忘れてしまったが、仕事中にさりげなく自分の気持ちを伝えた。その時に、彼女が驚いた表情をしていた事を今も覚えている。そのアルバイトを辞めるまでの数ヶ月、彼女と付き合っていた。女性教師の様な雰囲気の真面目な彼女に惹かれた。クリスマスイブの夜に、原宿で食事をしたのが一番の思い出であろうか。翌年の4月、デザイン会社に就職して妻と出会うまでは、デザイン学校のクラスメートや、近所の美容室に勤めるお姉さんと付き合った事もあったが、いずれも長続きしなかった。ポストホビーの話には後日談がある。2009年に東京へ行った際、私がアルバイトをしていた代々木店の店長さんと偶然に再会する事ができた。当時のお礼を申し上げた際にはこう言われた。あ~うっすらと記憶があります。うっすらであっても、私を覚えていてくれた事には感謝しかない。再会した店長さんは、当時以上にお太りになられていて驚いた。以下次週のパート2につづく。

☆1976年の思い出深い洋楽
☆Isn't She Lovely/Stevie Wonder

私が洋楽に興味を抱くきっかけとなった曲は、
ラジオの深夜放送で聴いたビートルズのSomethingと、
スティービーワンダーのSuper stition の2曲である。
私が最も好きなビートルズとゆかりのあるミュージシャンが
スティービー・ワンダーと言えるのではないだろうか。
この曲は、1976年にリリースされたアルバム
「キー・オブ・ライフ」に収録された楽曲で、
自分の娘の誕生祝いに書かれたものである。
https://www.youtube.com/watch?v=oE56g61mW44

☆We Are All Alone / Boz Scaggs

クリスマスイブの夜、ポストホビーのアルバイトで知り合った女性に
プレゼントしたボズ・スキャッグスのアルバム
「シルク・ディグリーズ」に収録された楽曲。
この曲を聴くと、当時の職場と彼女の姿が目に浮かぶ。
https://www.youtube.com/watch?v=xFVc2ugjiHI

☆左から二番目、ビートルズのTシャツを着ているのが私。

2020年10月11日EXPERIENCE, TEENAGE MEMORIES