もう止めよう。
儀礼だけの年賀状。

2020年12月24日DESIGN STORY

☆東京で最後に勤めた会社の年賀状。コピーとデザインは私の恩師であるKさん。
 メンバーの顔を知らなくても楽しめる典型的な賀状と言える。

この季節になると憂鬱に思うことがある。年賀状の制作と、やりとりにうんざりしているからである。この時代にまだ賀状が必要か?そう思いながらも毎年義務感に苛まれて作ってきた。しかしながら、2年前に患った大病をきっかけに、友人と客先向けの年賀状制作は止めた。自分が出すのを止めなければこれからもやりとりが続くのだろう。そう思った瞬間に止める決心がついた。今の時代、新年を迎える気持ちの伝達方法はいくらでもある。私が賀状を止めた最大の理由は、出した相手から殆ど返って来ない事である。これは主に客先である。一方通行なやりとりしかできない相手に対してどのような価値観を見出せというのか。そう考えたらスッキリ止められた。元より私は、お世話になった方には賀状では無く、メールや手紙を出したり、電話をかけたり、私が出向いてお会いしたりする。あんな小さなハガキ一枚では、相手に伝えたい事の半分も伝えられない。従って、私が現在も賀状を出し続けているのは高齢者が多い親族のみである。

長年続けてきたことを止める訳にはいかない。

実は父の生前、賀状について話した事があった。「お父さん、毎年年賀状どれくらい出すの」「そうだな200枚ぐらいかな」「なぜそんなに多くの枚数を出す必要あるの」「今まで長年続けてきたことを急に止める訳にはいかないよ」私は父にこう返した。「もう止めたら。返ってこない賀状など出しても無駄だって」「‥」その時の父は私の意見に納得していなかったのであろう。その後、父の死去で賀状のやりとりも終焉を迎えた。疑問に思いながらも、相手がするから、自分もしなければと義理を重じて続けてしまう。人は大きなきっかけがないといつまでも当たり前のように同じことを繰り返してしまうものだと思った。

☆名古屋に帰って入社したデザイン会社の同僚女性からの年賀状。
 彼女は才能があり、私も時々デザインテクニックを教えていた。
 ドイツ製の製図用万年筆『ロットリング』で描かれた楽しいデザインである。
ご家族の顔を知らない私が、どの様な感想を持てば良いと言うのか。

友人から頂く賀状にも、時折困惑する事がある。家族の写真を配したデザインや、干支に因んだ駄洒落を綴った賀状などである。もちろん相手に悪気がない事は承知している。しかしながら、ご家族の顔を知らない私が、どの様な感想を持てば良いのだろうか。駄洒落を綴ったものも同様。僭越ではあるが、私は子供時代から笑いのセンスに長けており、東京時代の仕事仲間からも一目置かれていたのだ。その私に対して、笑いのセンスのかけらも無い賀状を送ってこられても困る。笑えないどころか、張り倒してやろうかと思う時すらある。例えばグラフィックデザイナーであるならば、奥様や子供さんを無理やり登場させるような陳腐な発想ではなく、普段の仕事から離れたような作風を見せていただきたいと思う。あるいは、笑いを誘うようなものを作りたいのであれば、その人やご家族の顔を知らなくても楽しめるような内容を考えていただきたい。それが企画でありセンスである。私の経験からすれば、笑いに走った家族オチ的な賀状は、往々にして失笑を買うと言う事を肝に銘じていただきたい。面白くもなんともないものを笑わねばならないのは苦痛である。それでも作りたいと言うのであるならば、親族と友人の最低2種類を用意していただきたい。親族には好きな表現をすれば良い。手間はかかるがそれも大切な事である。

☆昨年、母の親族に宛てた年賀状。
 左から母、私、妻
高齢の親族には近影を。若い親族には、ブログのアドレスを案内している。

私の母親は現在84歳である。当然のことながら母方の親戚も高齢化が進んでいる。もはや直接会うことすら皆無である。母の実家がある大阪の親戚とは、ここ数年賀状のみのやりとりになってしまった。ましてやコロナの問題もある。当面は会うこともできないであろう。そこで昨年は、母親と一緒に撮影した写真をデザインに起こした賀状を作った。一枚の写真で家族全員が元気だと察してもらえれば喜んでいただけるのではと考えて作った。また一方では、比較的年齢が若い親族には、ブログのアドレスを付記している。これを見てくだされば、私達の近況が分かりますよと記述している。時代が変われば、伝達手段や内容が変わるのは当たり前。肝心な事は、相手の価値観や環境を考慮して何が最適かを選択する事。作る方も受け取る方も、ストレスや不信感が募るような賀状は避けたい。相手を思いやる気持ち、心の伝え方が問われる。

2020年12月24日DESIGN STORY