奈菜子さん、 ご両親に会えましたか。 2022年1月2日
今日は昨年に他界した大島奈菜子さんの一周忌。彼女は私が独立以前に勤務していたデザイン会社で机を並べて働いた元同僚。ご結婚後は退社してフリーランスのデザイナーとして活躍していた。その後がんを患いながらも仕事を続けていたが、昨年の11月28日に亡くなった。当時はコロナ禍であり、葬儀も行われなかったようだ。長年にわたり親交があった友人が亡くなった事実は残念極まりないが、最後まで生きる望みを持ち続けた強い人だった。今日は同じ道を志した彼女の人となりを記してさよならを綴らせていただきたい。
話は三年前に遡る。私は多忙を理由に健康管理を怠り脳出血を発症。幸いにも内科的治療で退院できたものの、その後症候性てんかんを発症。病気のショックから立ち直るのに長い時間を要した。これを断ち切りたいと始めた事が旧ブログである。その際には、かつての同僚である大島奈菜子さんに連絡を取り近況を確認しあった。彼女から最初に頂いたメールの日付は2019年9月3日。メールには驚くべき表現が記されていた。「がんサバイバーです」当時の彼女は私より三歳若い55歳。なぜなんだという思いが真っ先に浮かんだ。以下は彼女から頂いたメールを元に辿った病気の過程である。
■2015年 がんが見つかる
■2017年 在宅勤務で仕事に復帰
■2018年 通常勤務復帰一ヶ月後にがんの再発が判明
■2019年 メールで交友を再開
■2020年 1月17日旧ブログで彼女を紹介
■2020年 3月20日勤務先を退社
■2020年 8月13日緊急入院
■2020年 8月31日退院
■2020年 11月22日最後のメールが着信
■2020年 11月28日死去(享年57)
生前の彼女と交わしたメールは数十回にも及ぶ。彼女は苦楽を共にしたかつての仕事仲間の一人だ。彼女の優れたデザイン力と男勝りの実行力に私は何度も助けられてきた。生真面目で仕事熱心。私が面倒な要求を出しても、快く引き受けてくれた人だった。時には仕事上の衝突もあったが、それはお互いが目指していた方向が同じだったからだ。
最初にいただいたメールから数日を経たメールでは、がんが発覚して以降は順調に回復していますと記されていた。ところが2020年になると様相が変わってきた。「息が上がるようになり、階段の昇降も出来なくなったため勤務先を退社しました」と記されていた。あくまでも推測だが、この時点で生活に大きな支障が出ていたのだろう。その後に頂いたメールは以下のように記されていた。「心配をかけたくないのでお伝えしませんでしたが、進行性のがんでステージ4です。既に転移もあります」
がんの進行状況を示すステージ4は重篤な状態を意味する。だが彼女から頂いたメールには愚痴や悲観の言葉は一切見当たらず。事実を受け入れて、前向きに生きる希望を持ち続ける姿勢には胸を打つものがあった。文面は極めて冷静なもので、時にユーモアを交えて綴られていた。「結構しぶとく生けそうです」だが現実はステージ4だ。達観できるはずはない。不安ながらも強い抗がん剤治療に耐えて、がんと闘う道を選択したのだろう。
それでも不幸は突然やってくる。彼女の父親は2008年に他界されている。また2019年5月には、彼女の母親も亡くなられたようだ。晩年は認知症だったらしい。自分が病気の上に母親の看護までしなければならない現実。彼女の心中察するに余りある。母親には幻覚や幻聴の症状も出ていたようで、時には暴言を浴びせられて心が折れそうになったとも聞いていた。それでも彼女はめげずにお母さんの看護を続けて最期を看取ったという。
次々に訪れる苦難に対して、真正面から受け止めた彼女。友人として自分がしてあげられる事はないだろうかと考えた。そこで思いついたのが彼女の紹介記事を作成してブログで公開することだった。僭越ながら彼女を勇気づけてあげたいと考えた上での提案だった。彼女から了解をいただき記事の作成を始めた。彼女の全面的な協力を得て記事が完成。2020年1月17日に公開した。程なくして紹介記事の閲覧数が一位になったことを彼女に伝えると、「ありがとうございます。人生を振り返るきっかけになりました。また今後の人生の励みになります」と伝えてくれた事を今も鮮明に思い出す。
六月を迎えたある日の事。病気と闘う彼女にメールを送信した。「奈菜子さんの記事閲覧数が一位になった記念として、貴女の友人の紹介記事を作りましょうか」と持ちかけた。「とても嬉しいのでぜひお願いします」と返信してくれた。彼女が紹介したい友人は作家の彩陽(いろは)こと菅尾陽子(すがお ようこ)さんである。菅尾さんはネットを通じて知り合った間柄と聞いていた。彼女は菅尾さんと親交があり、菅尾さんの作家活動を支援していたようだ。だが面識のない菅尾さんの紹介記事作成は容易くなかった。
記事作成については、菅尾さんの著書を購入して読破。その後に菅尾さんに質問する形でメールのやり取りを行った。なんとか完成したものの、自分では納得出来ないクオリティだった。自分が納得できない記事を公開するなど出来るわけがない。企画・構成を見直した結果、一から作り直して完成。2020年7月3日に公開した。公開後の記事閲覧数は急上昇。奈菜子さんの紹介記事閲覧数を抜き去り、あっという間に一位になった。この事実を奈菜子さんに伝えたところ、自分の事のように喜んでくれた。「こうして一人一人が繋がっていくのが嬉しいです」この言葉は今も私の心に強く残っている。因みに「フレンズ・カタログ」と題した友人の紹介記事は、その後シリーズ化を果たしている。
菅尾さんの記事公開後も奈菜子さんとメールを交わしていたのだが、病状は穏やかだと思い込んでいた。ところが昨年の8月に容態が急変して緊急入院。偶然だが、入院当日の朝に送信した私のメールに気付いてくれて返信をいただいた。「厳しいですが頑張ってきます」そうなのだ。まさかそれほどにまで悪化しているとは私も知らなかった。恐らく周りに心配をかけたくないと伏せていたのだろう。後に奈菜子さんから頂いたメールによれば、がんである事は菅尾さんにも伝えなかったようだ。退院後に彼女から頂いたメールの日付は11月22日。これが彼女からの最後のメールになってしまった。11月28日死去。このご時世のため、葬儀に参列できなかったもどかしさは残るが、彼女のために綴った記事が生前に公開できた事は幸いだった。そして彼女の記事に続けて作成した菅尾さんの記事も、多数の人の目に留まったようだ。人の繋がりに感謝して生きる。常日頃から周りを見渡して行動していた心遣いに溢れた友人だった。
人の一生を生きた時間で判断するのであれば、彼女の人生は決して長くはなかった。だが人の価値は生きた時間で決まるものではない。いかに生きたかが大切なのだ。彼女の生きた証は、彼女と親交があった方々の尊い思い出となり、心の中に息づいていくだろう。私一番の思い出は、日曜出勤した際に彼女も出社していて驚いた事。この時は互いに心を開いて様々な話をした。また仕事帰りに仲間と出かけたスペイン料理店での夕食会も忘れられない思い出だ。「私がお勧めの店ですよ〜」と笑っていた事が懐かしく思い出される。アルコールに弱い私を見て「無理して飲んではダメですよ」と気遣ってくれた姿が偲ばれる。友人の死去の知らせは心に突き刺さる。存在だけではなく、共有していた時間や価値観、そして当時の思い出が全て消え去ってしまうような気がするからだ。
昨年12月に旧ブログで公開した追悼記事では、まだ心の整理がついておらず、「さよならはまだ言いたくありません」とだけ記した。あれから一年。季節が変わる度に彼女の事を思い浮かべて過ごした。彼女のメールはもう二度と届かない。「一人一人が繋がっていくのが嬉しいですね」と伝えてくれた奈菜子さん。貴女の想いは自分が受け継ぎます。友人でいてくれてありがとう。いつの日かまた会いましょう。
☆I'm Carrying/Paul McCartney and Wings(Remastered 1993)
https://www.youtube.com/watch?v=47iR9wbmyOI
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2022年1月2日
今日は昨年に他界した大島奈菜子さんの一周忌。彼女は私が独立以前に勤務していたデザイン会社で机を並べて働いた元同僚。ご結婚後は退社してフリーランスのデザイナーとして活躍していた。その後がんを患いながらも仕事を続けていたが、昨年の11月28日に亡くなった。当時はコロナ禍であり、葬儀も行われなかったようだ。長年にわたり親交があった友人が亡くなった事実は残念極まりないが、最後まで生きる望みを持ち続けた強い人だった。今日は同じ道を志した彼女の人となりを記してさよならを綴らせていただきたい。
話は三年前に遡る。私は多忙を理由に健康管理を怠り脳出血を発症。幸いにも内科的治療で退院できたものの、その後症候性てんかんを発症。病気のショックから立ち直るのに長い時間を要した。これを断ち切りたいと始めた事が旧ブログである。その際には、かつての同僚である大島奈菜子さんに連絡を取り近況を確認しあった。彼女から最初に頂いたメールの日付は2019年9月3日。メールには驚くべき表現が記されていた。「がんサバイバーです」当時の彼女は私より三歳若い55歳。なぜなんだという思いが真っ先に浮かんだ。以下は彼女から頂いたメールを元に辿った病気の過程である。
■2015年 がんが見つかる
■2017年 在宅勤務で仕事に復帰
■2018年 通常勤務復帰一ヶ月後にがんの再発が判明
■2019年 メールで交友を再開
■2020年 1月17日旧ブログで彼女を紹介
■2020年 3月20日勤務先を退社
■2020年 8月13日緊急入院
■2020年 8月31日退院
■2020年 11月22日最後のメールが着信
■2020年 11月28日死去(享年57)
生前の彼女と交わしたメールは数十回にも及ぶ。彼女は苦楽を共にしたかつての仕事仲間の一人だ。彼女の優れたデザイン力と男勝りの実行力に私は何度も助けられてきた。生真面目で仕事熱心。私が面倒な要求を出しても、快く引き受けてくれた人だった。時には仕事上の衝突もあったが、それはお互いが目指していた方向が同じだったからだ。
最初にいただいたメールから数日を経たメールでは、がんが発覚して以降は順調に回復していますと記されていた。ところが2020年になると様相が変わってきた。「息が上がるようになり、階段の昇降も出来なくなったため勤務先を退社しました」と記されていた。あくまでも推測だが、この時点で生活に大きな支障が出ていたのだろう。その後に頂いたメールは以下のように記されていた。「心配をかけたくないのでお伝えしませんでしたが、進行性のがんでステージ4です。既に転移もあります」
がんの進行状況を示すステージ4は重篤な状態を意味する。だが彼女から頂いたメールには愚痴や悲観の言葉は一切見当たらず。事実を受け入れて、前向きに生きる希望を持ち続ける姿勢には胸を打つものがあった。文面は極めて冷静なもので、時にユーモアを交えて綴られていた。「結構しぶとく生けそうです」だが現実はステージ4だ。達観できるはずはない。不安ながらも強い抗がん剤治療に耐えて、がんと闘う道を選択したのだろう。
それでも不幸は突然やってくる。彼女の父親は2008年に他界されている。また2019年5月には、彼女の母親も亡くなられたようだ。晩年は認知症だったらしい。自分が病気の上に母親の看護までしなければならない現実。彼女の心中察するに余りある。母親には幻覚や幻聴の症状も出ていたようで、時には暴言を浴びせられて心が折れそうになったとも聞いていた。それでも彼女はめげずにお母さんの看護を続けて最期を看取ったという。
次々に訪れる苦難に対して、真正面から受け止めた彼女。友人として自分がしてあげられる事はないだろうかと考えた。そこで思いついたのが彼女の紹介記事を作成してブログで公開することだった。僭越ながら彼女を勇気づけてあげたいと考えた上での提案だった。彼女から了解をいただき記事の作成を始めた。彼女の全面的な協力を得て記事が完成。2020年1月17日に公開した。程なくして紹介記事の閲覧数が一位になったことを彼女に伝えると、「ありがとうございます。人生を振り返るきっかけになりました。また今後の人生の励みになります」と伝えてくれた事を今も鮮明に思い出す。
六月を迎えたある日の事。病気と闘う彼女にメールを送信した。「奈菜子さんの記事閲覧数が一位になった記念として、貴女の友人の紹介記事を作りましょうか」と持ちかけた。「とても嬉しいのでぜひお願いします」と返信してくれた。彼女が紹介したい友人は作家の彩陽(いろは)こと菅尾陽子(すがお ようこ)さんである。菅尾さんはネットを通じて知り合った間柄と聞いていた。彼女は菅尾さんと親交があり、菅尾さんの作家活動を支援していたようだ。だが面識のない菅尾さんの紹介記事作成は容易くなかった。
記事作成については、菅尾さんの著書を購入して読破。その後に菅尾さんに質問する形でメールのやり取りを行った。なんとか完成したものの、自分では納得出来ないクオリティだった。自分が納得できない記事を公開するなど出来るわけがない。企画・構成を見直した結果、一から作り直して完成。2020年7月3日に公開した。公開後の記事閲覧数は急上昇。奈菜子さんの紹介記事閲覧数を抜き去り、あっという間に一位になった。この事実を奈菜子さんに伝えたところ、自分の事のように喜んでくれた。「こうして一人一人が繋がっていくのが嬉しいです」この言葉は今も私の心に強く残っている。因みに「フレンズ・カタログ」と題した友人の紹介記事は、その後シリーズ化を果たしている。
菅尾さんの記事公開後も奈菜子さんとメールを交わしていたのだが、病状は穏やかだと思い込んでいた。ところが昨年の8月に容態が急変して緊急入院。偶然だが、入院当日の朝に送信した私のメールに気付いてくれて返信をいただいた。「厳しいですが頑張ってきます」そうなのだ。まさかそれほどにまで悪化しているとは私も知らなかった。恐らく周りに心配をかけたくないと伏せていたのだろう。後に奈菜子さんから頂いたメールによれば、がんである事は菅尾さんにも伝えなかったようだ。退院後に彼女から頂いたメールの日付は11月22日。これが彼女からの最後のメールになってしまった。11月28日死去。このご時世のため、葬儀に参列できなかったもどかしさは残るが、彼女のために綴った記事が生前に公開できた事は幸いだった。そして彼女の記事に続けて作成した菅尾さんの記事も、多数の人の目に留まったようだ。人の繋がりに感謝して生きる。常日頃から周りを見渡して行動していた心遣いに溢れた友人だった。
人の一生を生きた時間で判断するのであれば、彼女の人生は決して長くはなかった。だが人の価値は生きた時間で決まるものではない。いかに生きたかが大切なのだ。彼女の生きた証は、彼女と親交があった方々の尊い思い出となり、心の中に息づいていくだろう。私一番の思い出は、日曜出勤した際に彼女も出社していて驚いた事。この時は互いに心を開いて様々な話をした。また仕事帰りに仲間と出かけたスペイン料理店での夕食会も忘れられない思い出だ。「私がお勧めの店ですよ〜」と笑っていた事が懐かしく思い出される。アルコールに弱い私を見て「無理して飲んではダメですよ」と気遣ってくれた姿が偲ばれる。友人の死去の知らせは心に突き刺さる。存在だけではなく、共有していた時間や価値観、そして当時の思い出が全て消え去ってしまうような気がするからだ。
昨年12月に旧ブログで公開した追悼記事では、まだ心の整理がついておらず、「さよならはまだ言いたくありません」とだけ記した。あれから一年。季節が変わる度に彼女の事を思い浮かべて過ごした。彼女のメールはもう二度と届かない。「一人一人が繋がっていくのが嬉しいですね」と伝えてくれた奈菜子さん。貴女の想いは自分が受け継ぎます。友人でいてくれてありがとう。いつの日かまた会いましょう。
☆I'm Carrying/Paul McCartney and Wings(Remastered 1993)
https://www.youtube.com/watch?v=47iR9wbmyOI